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経済の研究No.129
救いが無かった特定合併

 第113回第117回で名を上げたなみはや銀行が破綻しました。これまでにも増して金融監督庁の動きが不自然だったので、少し検証してみようと思います。
 大蔵省主導の銀行行政は、破綻銀行を生み出さないことでした。それは政治的要求でもありましたが、大蔵省の裏付けのないプライドによるものでした。数多い銀行に目を光らせ、不正を正し、健全な活動を行わせる責任が大蔵省にはあったはずです。しかし現実には、そのための管理監督権限を銀行支配にだけ用い、いくつもの破綻銀行を生んでしまいました。

■ 苦し紛れの特定合併
 実質的に破綻した銀行であっても、破綻はしていないとの詭弁を並べ立て、金融システムの護持を建前にした舵取りを行ってきました。これをもって護送船団行政と言われていますが、現実には護送していたのかどうかさえ疑問に感じます。
 その舵取りは安直で、体力のある受け皿銀行に破綻銀行を救済合併させるというものばかりでした。その受け皿銀行には専ら都市銀行が当たりましたが、バブル以降、著しく体力を消耗した結果、自らの命脈さえも保てなくなり期待に応えることが出来ませんでした。やむなく導入したのが、国有化であり、特定合併であったわけです。
 特定合併とは、預金保険機構の資金を受けて不良債権を分離して、小さくなった健全部分だけを合併させて、適正規模の健全銀行に再生させるという方法です。1997年12月に成立した改正預金保険法に盛り込まれたものでした。これは事実上公的資金による借金棒引きであり、3,725億円あった不良債権を3,000億円という高額で整理回収機構が買い取る形で実現しました。
#N9月に合併認可を受け、10月に成立したなみはや銀行は、特定合併を適用した第1号として世間の耳目を集めました。しかし、これだけの優遇であったにも関わらず、わずか10か月で破綻してしまったのです。どこに問題があったのでしょうか。

■ 過少申告されていた不良債権
 なみはや銀行の母体は、旧福徳銀行と旧なにわ銀行でした。旧福徳銀行は、平たく言えば暴力団との関係の深いダーティな銀行でした。1995年に関連ノンバンクの法的整理を発表し、その乱脈ぶりの一端が明らかになりました。それでも関連ノンバンクの清算によってダーティな取引と離別したと思われていましたが、新銀行成立後までも関係を持っていたことが明らかになりました。
 整理回収銀行に買い取らせた不良債権には、かなりのダーティな案件が紛れ込んでいました。70%以上の資金回収などとても望めないような案件が多かったようです。それでも、整理回収銀行が動き出せば担保物件は損失覚悟で売却されます。それさえも回避するために、不良債権を健全債権に粉飾するという荒技を旧福徳銀行の経営陣は行いました。
 融資先に新会社を設立させて新会社に新規融資をし、その融資資金を迂回させて融資先から元利の返済を受けたという処理を行うものであったのです。旧福徳も旧なにわも不動産融資の焦げ付きで行き詰まったわけですが、その不動産融資がなにわ銀行の成立後に一層膨らんでいるという不可解な現象を生じていました。1999年3月末の不動産融資残高は3,400億円に達し、1998年末の両行の融資残高5,800億円から3,700億円売却した残額2,100億円を大幅に上回るものです(数字は「金融ビジネス」9月号から引用)。
 不良債権額が過少申告されていた上に、さらに不良融資先へ貸し込んでいたわけですから、破綻は確実だったと言うことになります。そもそも旧福徳銀行は特定合併のモデルケースとなれるような資格がなかったと言うことです。

■ 不可解な大蔵省検査
 ここで不可解なことがいくつかあります。改正預金保険法の成立は明らかに旧福徳と旧なにわの救済が目的でした。同法の成立なしに両行を救済する手段は残されていなかったのですから。そこで生じる疑問は、なぜ現行法の改正までして中位地銀の救済が行われたのかということです。
#N5月に松永蔵相(当時)が両行への特定合併を斡旋していますが、これは大蔵官僚の意向を受けてのことであるのは間違いありません。常識よりもはるかに高額で整理回収銀行に不良債権を買い取らせたのも大蔵官僚の成せる業でしょう(二次損失は国民の負担になりますのにね)。
 最近金融当局から出ている言い訳があります。第一に合併が決まったのは金融監督庁が設立される直前の過渡期であったこと、第二にすでに新基準の導入が決まっていたが当時適用した検査方法は旧基準に準じていたこと、第三に両行の不良債権は金融当局の精査の結果でなく自己申告に基づくものであったこと、だというのです。
 第一の言い訳を検討します。金融監督庁は大蔵省銀行局の人員を引き継いでおり、いくら組織替えがあったとしても、改組前に旧福徳の乱脈ぶりを把握していなかったはずがありません。直近の検査は1998年4月に行われましたが、特定合併を前提にした検査である以上、不良債権を生んだメカニズムぐらいは把握していない方が異常です。また、旧福徳には大蔵OBと日銀OBが要職にあったのですから。
 第二の言い訳を検討します。検査方法が違うかどうかよりも、何のための検査だったかと言うことの方が問題です。これでは、大蔵省時代の検査は全く形式的だったと認めるようなものです。すでに無くなった組織の責任にして全ての問題が片付く理由はありません。まして新基準が策定されたということは、すでに旧基準の不備を自覚していたということであり、問題を把握しながら大目に見たというのが本音でしょう。
 第三の言い訳を検討します。自己申告で済ませるのなら大蔵省検査とは何だったのかということになります。不良債権を公的資金で肩代わりするための検査で当事者が誤魔化しをするはずがないと信じてたのでしょうが、その当事者はダーティな取引で経営を行き詰まらせた銀行なのですから、額面通り信用したのはいかがなものでしょうか。
 やはり護送船団行政の意識が抜けきらず、問題を承知の上でその隠蔽を黙認したのでしょう。なにしろ、旧福徳の専務は大蔵省出身の向井氏と日銀出身の草野氏でした。身内が天下った先を締め上げることができなかったのでしょう。新銀行成立後も不動産融資を膨らませたという事実は、金融当局の弱腰を見透かしてトコトン食い物にしていたということです。

■ もっと不可解な金融監督庁検査
 金融監督庁の成立は1998年6月でした。事実上機能し始めたのは10月でしたから、新銀行の成立後と言うことになります。危機が囁かれ始めた1999年5月末の時点で、初の監督庁検査を実施しました。この検査は前述の新基準に基づく厳密なもので、不良債権の認定も監督庁自ら行ったものです。
 この検査で金融監督庁が慌てたようには見えません。たぶん把握していたとおりの結果だったからでしょう。問題は、検査結果をそのまま公開することで、特定合併第1号を破綻させて良いかどうかの決断だけだったと思います。第1号が失敗すれば、当然に特定合併というカードは新規に切れなくなります。したがって、素直に破綻を発表すると政治的圧力が加わりかねません。
 そこで、3つのエクササイズに取り組んだという見方ができます。まずインパクトの小さい国民銀行を4月に破綻させました。同じ手法で噂の多い幸福銀行を5月に、同じく問題が大きい東京相和銀行を6月に、それぞれ破綻させました。不良債権の検査結果をリークし早期是正措置を発動してから潰すという手法を明確にし、同時に世論を味方に付ける取り組みです。幸福と東京相和、そしてなみはやの迂回融資メカニズムが、早い段階でマスメディアにリークされていました。今回の一連の破綻処理は、なみはや銀行を潰すための布石だったのかも知れません。
 ところが道のりは険しかったようです。5月末から監督庁検査に着手しましたが、発表は8月までずれ込みました。連結自己資本比率はマイナスだが一過性のものであること、第三者割当増資120億円の自己調達について成り行きを見守ること等をコメントしていましたが、現実には1,000億円強の債務超過を把握していたのですから、罪作りな話です。
 なみはや銀行の株価は22営業日連続のストップ安で、そこで引導を渡す方法があったはずです。しかし増資計画の発表後16営業日連続のストップ高で額面を回復した日に、債務超過の事実を公表して引導を渡しました。額面で株式を売り抜けたい特定投資家の意向が及んだのかも知れません。

■ むすび
 これまでのエクササイズから見て、なみはや銀行の債務超過額はかなり膨らむでしょう。巷では1,600億円という呼び声もあります。健全化したはずの特定合併からたった10か月でした。その損失も国税で埋められるという理不尽な問題は、解消してくれません。一応は旧福徳の大池頭取と2人の専務が商法違反容疑等逮捕されました。ある程度の事情は明るみに出るでしょうが、なぜ特定合併をしてまで救済しようとしたかは、永久に解明されないのですね。
 あまりにも救いが無かったことになります。。。

99.08.13

補足1
 破綻を目前にした徳陽シティ銀行が、山形殖産銀行と北日本銀行と広域合併したいという話がありました。この際に暗躍したのは、乱脈経営のオーナー経営者を放逐した後釜の大谷社長(大蔵省OB)であり、北日本銀行の熊崎相談役(前会長,日銀OB)であったそうです。
 みどり銀行次いでみなと銀行として救済を受けた兵庫銀行にも大蔵省OBが送り込まれていたそうで、強引な救済合併には恒に大蔵・日銀OBの暗躍と面子が掛けられていたのですね。

99.08.14
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