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政治の研究No.58
塾教育の在るべき姿は

 自分でも塾講師はやってみましたが、塾教育の役割は何でしょうか。もともとは学校での勉強を補うのが役目であったはずです。学校での勉強を復習したり、分からないところを教えて貰う補講のような役割を担っていたような気がします。多少の予習授業はあっても良いと思いましたが・・・。

 私が子供時代に通っていた塾はそういう学習塾で、中学2年までは復習が中心のカリキュラムでした。さすがに受験生になれば予習をしながらでないと、受験準備ができなかったのですが、それでも牧歌的な授業でありました。まず塾生には「歌集」が配られ、授業の合間に先生のギター演奏でポップ・ミュージックを歌ったり、春秋には単なる宿泊キャンプに参加したり、と楽しいものでした。
 しかし今時、そんな悠長な塾は敬遠されるでしょう。この塾は西神戸に6校展開していますが、昔は塾長自ら教鞭を執り、なかなか楽しい授業を見せてくれたものでした。しかし基礎力の充実には厳しく、毎日大学ノート1ページ分の英文書き取り(「宿題帳」と呼ばれていました)、独自作成の宿題プリントなどもあり、気が抜けない塾でした。とはいえ、勉強を詰め込まれるというでもなく、面白可笑しく通ううちに実力が付いたように思います。ちなみに地域一番手の高校に、多数の塾生を送り込んでいましたので、この教育方法は有効だったと言うことです。
 もう一つ通っていた塾は、西日本に多店舗展開中だった学習塾で、こちらも生徒との交流を深めることに重点を置き、生徒達も先生に懐くことで勉強への意欲を持つというものでした。ここも、まずまず良い学校へ塾生を送り出していましたが、ランク別のクラス分けをしていた関係で、低ランクの生徒にとっては意欲の湧かない塾だったでしょう。今でも続いていますが、すっかり雰囲気が変わってしまい、スパルタ気味の無味乾燥な授業が多くなっているそうです。とにかく子供がギャグに付き合わない・・・のだとか。先生も意欲を無くしますよね。

 当時でも、スパルタ式の特訓教育をしていた塾はありました。東神戸のM田塾では、塾生に学校を休ませるのです。中学校で同期だったT君は、灘高校へ進学しましたが、中学3年の授業を1/3も欠席しました(本来は義務教育ながらも留年)。あるいはH学園というスパルタ塾で、塾帰りを急ぐ子供達が階段で将棋倒しになって大けがをしたと新聞沙汰にもなりました。しかし、あくまで特殊な事例でした。名門私立高校を狙うような子供だけが通う塾でしたから。
 しかし、今ではH学園のような塾が主流を占め始めています。何と言っても親の支持が集まりやすいですね。「名門高校への合格者が○○名」「高校浪人なし」という看板に、親は弱いのです。スパルタ教育の塾なんて体質に合わない子供の方が圧倒的に多いはずです。そんな塾生は勉強に嫌気をさして続かないでしょう。続くには続いても、成績が思うように伸びないということもあります。「良い塾に入れたから賢くなった」「塾を変えたら偏差値が高くなった」と喜ぶ親がありますが、単に反射神経を鍛えられただけで、むしろ応用の利かないバカになっていたりもします。
 こういうスパルタ塾に入れれば偏差値が上昇するのには理由があります。数学は、大学並に公式を駆使させて難しい問題を解かせる練習をします。英語も、センター試験で要求される程度のものをたたき込みます、理科でも高校1年生用のテキストを使わせます。先回り先回りして高度なことを教えるために、偏差値が高くなるのです。また高校の入試問題が、中学校で教えない水準の内容まで出題します(そうでないと優劣を付けられないためです)。いわゆる奇問難問というもので、ますますスパルタ塾の学生に有利になっています。

 そのため普通の受験生も奇問難問を解けなくては困るようになります。中学校でも対応しようと必死になりますが、基礎力を身につけさせることが疎かになって、基礎から理解できない生徒が増えています。また学習塾に通っていて飲み込みが早い生徒が多いと、説明を省略して次のステップに進んでしまいます。結果、本来は段階を踏んで貰えれば理解ができる生徒も、学習塾に通わないために勉強が分からない・・・という「踏み台理論雑記帳第26回を参照)」に填り込んでしまいます。誰もが学習塾にアクセク通い、重すぎる課題をこなし、自我を形成するための貴重な時間を失ってしまいます。毎日疲れてばかりいて友達と仲良く話ができない、競争意識が先に立って親友が作れない、などの弊害もあるようです。
 そもそもスパルタ塾が蔓延ることによって、日本の子供達の知能指数が上がったという話は聞きません。偏差値という指標では優秀になったかも知れませんが、それが難問や奇問を解けることで獲得した偏差値なら、社会では全く役に立ちません。はやくみんなで「踏み台」を外して、人格形成や人脈形成に役立つ塾教育をやって欲しいと思います。そのためには、受験で学生を受け入れる高校や大学が、偏差値重視の入試を止めることが必要ですね。「入学試験を無くせ」とは言いませんが、人格形成度(本人のモラルや価値観など)や学校での生活態度などを重視して合否を判断して欲しいと考えます。そうなれば、塾教育も人物育成、長所を伸ばせる教育、短所を縮める教育をすることができるでしょう。。。。あ、これは学校の仕事だった!

99.01.26

補足1
 神戸では高校受験の際に「神戸方式」というのを採用していました。内申書と入試成績の評価配分を4:1ぐらいで評価していたものです。内申書には日常の成績や生活態度、担任のコメントなどが記載されてあって、これを所定の点数に換算したのでした。ところが、あまりに入試成績を軽視していたため、私が高校を受験する当時は1:1程度だったと聞いています。
 今では入試成績のウェイトの方が断然大きいようですが・・・。理由はいくつかあります。中学校はエリアごとでしたが、学校によって生徒の質にバラツキがあったようです。A中学の20番ぐらいの生徒が、B中学の1番の生徒よりも優秀と言うことも聞きました(偏差値の話です)。山手と下町の違いと言うことも理由だったかも知れません。また内申点を上げるために、務めもしない生徒会長や部長に成りたがる生徒もあり、肩書きだけでは高校側も判断に苦しんだようです。
 とはいえ、中学校の先生が公正な目で生徒を評価できなくなったというのが本音かも知れません。個人的な感情で内申書のコメントを書くような先生も、私の妹が在学中には居ました。自分の価値観に従わないだけで「無能」とコメントされた生徒もあったようです。それなら入試の際の面接で人物評価をすれば良さそうなのですが、充分な時間がないことや、高校の教師にも生徒の本質を見抜ける実力がないことで、現実には難しいようです。
 このままでは、本当に日本は変になってしまいますね。

99.01.26
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