みんなが、主役?

ときどき首を傾げたくなるコピーがあります。「みんなが主役です」という言葉に、何作品もお目に掛かります。脚本家や演出家のご苦労も分かりますが、それは違うのでは・・?

誰もが、主人公

私たちの日常生活において、私たち一人一人が違う物語を持っています。そして、その物語においては「誰もが、主人公」なのですよね、普通。どんなに愛する人にだって、自分の物語の主人公の座を渡すことはできません。ちっぽけな物語でも、他人に主人公を奪われることは無いのです。

自分の物語であって、自分が主人公です。でも、自分が主役でないことは、よくあります。他人の物語のための、脇役・端役・引き立て役・付け合わせ・エキストラなんて普通ですね。そして、そのときの主役は、たった一人です。せいぜい一組でしょうか。主人公と主役を混同すると、意味不明に成ります。

みんなが、脇役

そんな作品なら、沢山見掛けます。登場人物が、順繰りに発言や行動をして、結局誰が主役だったのか分からない場合ですね。主役は、ストーリーを通して、必ず存在をアピールしなくては、ダメなのです。アピールできないのは、主役でない。

ワンシーンだけのアピールでは、脇役です。本来の脇役は、主役を脇から助ける存在です。助ける立場であっても、黒子ではないので、ライトも浴びるしセリフもある。端役だって、ステージに上がれば、誰かの視線を受け止めるのです。本人がアピールしなくたって、存在を知られれば良いのです。でも、主役ではない。

みんなが、主役」を唱っていると、結局「みんなが、脇役」に成ってしまうのですね。当然ながら、オムニバスな散文芝居に仕上がって、スタッフやキャストは満足しても、お客様を満足させられません。ダメなのです。

お客様は、主役を欲する

お客様は、主役を欲するのです。自分のドラマでは、密かに自分が主役でありたいと願っています。普通は、自分が主役のまま人生を終えられませんから、そう願うのが人情でしょう。あるいは、特定の誰かを主役にもり立てたいと思うのもありますが、その願いも叶えるのは大変です。

ところが、芝居は仮想世界です。そこには主役があってこそ、お客様は、感情移入ができるのです。自分を主役に重ねる。あるいは、主役をもり立てる脇役に重ねる。仮にみんなが主役だとすると、観客は何度も意識を振り回されて、結局移入はできません。みんなが脇役だと、日常生活と変わらないので、仮想世界の価値がありません。

必要なことは、やはり一人の主役を作ることです。筋書き上、主役と思わせていた脇役を、すばやく入れ替えるのはOKです。しかし、最後まで主役不在なのは、ダメです。表面上は纏まっても、お客様の頭の中は纏まらないのですよ。

誰もが主役に成る必要は、無いでしょう。脇役としての責務を果たせば、必ず観客の印象に残ります。わずかワンシーンでも、主役よりも目を惹くことができるかも知れないのです。脚本家・演出家・そして脇役本人の努力さえあれば、大丈夫。「みんなが、脇役」だけは、無しにしましょう。