前頁へ  ホームへ  次頁へ
日本史の研究No.10
藤原四家の盛衰

 不比等の息子たち、武智麻呂、房前、宇合、麻呂が南家、北家、式家、京家の四家を成したと書きました。これら四家は内には争いながら、外には結束していました。したがって四家同時に発展したわけではなく、四家が交代に発展したのです。
 一家は一方に、他家は他方に味方することにより、どちらが勝利を収めても、藤原氏が滅亡することがありませんでした。小説家の黒岩重吾氏は、藤原氏を「ヤマタノオロチ」に喩えています。首をいくつ切り落としても本体が滅びない様を形容したものです。やがて高級貴族のポストをことごとく占有し、文字通りの怪物へと成長していきました。

 まず、藤原南家です。武智麻呂と房前の館が隣接していて、武智麻呂の館が南側にあったため南家を称したと伝えられます。武智麻呂の次男仲麻呂は光明子の秘蔵っ子で、孝謙天皇の憶えが目出度かったと言います。やがて若くして権力を握り、淳仁天皇の時代に軍事クーデターを企図した末に、処刑されました(仲麻呂の乱)。淳仁天皇が駅鈴と印綬を上皇方に引き渡したことが敗因と言われます。引き渡さなければ、上皇派が朝敵となり、吉備眞備の乱とでも呼ばれたでしょう。その場合、天武系の皇統が永続し、藤原南家が貴族階級を独占したかも知れませんから、歴史は分かりません。
 この際、仲麻呂の兄・豊成は上皇派に属し、やはり怪物だったと言えます。上皇は称徳天皇として再即位し、天皇親政を行いました。このため、藤原氏の付け入る隙がありませんでした(第8回を参照)。仲麻呂は恵美朝臣を賜り栄華を極めていましたが、処刑後に全てを剥奪されています。その後、この一族は貴族として奮わず、武智麻呂の四男・巨勢麻呂から工藤一族が現れて、関東武士として栄えました。

 つぎに、藤原式家です。初代・宇合が、式部卿であったことに由来します。宇合の長男広継は諸兄・眞備らの排斥を目論み、九州で挙兵し敗れました(広継の乱)。しかし広継の弟たちは、連座を免れて無事でした。その一人の百川は、称徳天皇の死後に道鏡を追放し、天智系の光仁天皇を擁立しました。光仁はすでに老年に近かったのですが、詔勅のすり替えをしてまで強引に即位をさせたと言われます。
 光仁の死後、その皇子・山部親王を桓武天皇として即位させました。桓武は天智五世孫(本来は、臣籍に下らねばならない)で、百川のお陰で親王になりました。また光仁の意中の人は、桓武の弟・早良親王であったと伝えられていますが、百川の活躍で桓武が即位しました。この百川の大恩を感じた桓武は、式家を大いに引き立てました。
 百川の姪・乙漏子との間に平城と嵯峨の両天皇を、百川の娘・旅子との間に淳和天皇を、それぞれ授かりました。また百川の長子緒嗣を正二位左大臣に、百川の甥縄継を従二位に、縄主を従三位中納言に、種継を中納言にそれぞれ任じています。のちに種継には長岡京の建設を命じましたが、784年の遷都直前に種継が暗殺されたことから、さらに平安京へ遷都する引き金となりました。
 他家を圧倒した式家でしたが、種継の娘・薬子が問題を起こしました。薬子は、人妻でありながら平城天皇を誑し込み、権力を握りました(小説家海音寺潮五郎氏の試算では、薬子は平城の10歳以上年上であったそうです)。ところが早良親王の祟りの噂を信じた平城は、嵯峨天皇に譲位し上皇となりました。これに不満な薬子は、平城を唆してクーデターを企図した末に、殺害されました(薬子の乱)。これを機に、式家は没落しました。

 そして、藤原北家です。仲麻呂の乱では、房前の長男真楯が中立派、四男御楯が仲麻呂派でありました。その後の権力闘争でも専ら中立を保ち、他家とのバランスから位階だけは高く、実権は有していませんでした。それが南家と式家の没落により急遽のし上がったのです。
 真楯は正三位大納言、その子・内麻呂は従二位右大臣、その子・冬嗣は正二位左大臣であり、一代毎に位階を一つずつ進めました。そして冬嗣の子・良房は、人臣として初めての太政大臣に就きました。妹。順子が仁明天皇の后として文徳天皇を産み、文徳の摂政に就任したことによります。藤原氏の摂政就任は、人臣として始めてのことでした。
 その後、良房の娘・明子が文徳天皇の后として清和天皇を産み、藤原氏の権力が確立されました。良房には男子なく、兄の子・基経を養子としました。基経は陽成天皇の摂政となり、光孝天皇、宇多天皇に相次いで仕え、人臣で初めて関白に就任しました。
 基経の高慢さに辟易した宇多天皇は、菅原道真を取り立て、藤原氏に対抗させました。宇多が藤原系の天皇で無かったことも理由です。北家は、基経の四代孫・道長の時代に全盛期を迎えましたが、その後天皇家の弱体化に伴い、貴族階級も弱体化しました。しかし貴族階級においては、高位の多くを独占し続け、摂政・関白職を北家(のちに分裂して、摂関諸家となった)が独占しました。

 最後に藤原京家です。初代・麻呂が左京太夫であったことに由来すると伝えられます。この家が天下を取ることは、ありませんでした。麻呂の子供たちが少なかったこと、天皇の后を出せなかったこと、子供たちも幼く確たる権力基盤がなかったこと、などが理由に挙がっています。しかし麻呂のみが五百重媛の子で、他の三兄が蘇我娼子の子であったことも関係があるかも知れません。五百重媛は天武の女御であった人物で不比等の妹です。不比等と密通して麻呂を生んだというのが定説であるそうですが、あるいは他の誰かとの間にできた私生児を不比等が引き取ったのではないかとも考えられます(出典によれば「天武女御 密通生麻呂」とあります)。そうであれば、麻呂の地位が三兄よりも地位が低く、京家の勢力が伸び悩んだ説明も分かりやすいです。

98.06.09
前頁へ  ホームへ  次頁へ