日本の貴族の代名詞ともいうべき藤原氏は、鎌足を氏祖としますが、事実上の氏祖は、その子不比等(ふひと)です。藤原姓は鎌足の死の直前、あるいは直後に与えられたと伝わるためです。天智天皇以前において、臣下に天皇自ら姓を授けた事例は、皇胤を除いて見当たりません。それほどに破格の待遇であったことが分かります。しかし鎌足の死後、幼い御曹司不比等のほかに一族を纏める人材を得なかったため藤原氏は奮いませんでした。天武天皇は天武13年に不比等に対して藤原朝臣姓を授けています。壬申の乱で働きのなかった藤原氏に破格の待遇でありました。そして不比等によって藤原氏の強固な基盤が築かれたのです。如何にしてか?
不比等には四男四女がありました。その長女宮子に文武天皇の側女として首皇子を出産しました。のちの聖武天皇です。聖武天皇には三女光明子が側女(のちに皇后に冊立されました)として阿部内親王を出産しました。のちの孝謙(称徳)天皇です。つまり不比等は二代に亘り天皇の外戚となることで地位を高めたのです。しかし同時に彼自身が有能な政治家でありました。大宝律令の制定に参与し、養老律令を完成させました。また律令政治を具現化し、奈良朝廷の基礎造りに大いに貢献しました。
文武の死後、若い首皇子へのリリーフとして元明天皇が即位しました。天智天皇の皇女で首皇子の祖母です。元明の死後は文武の姉元正天皇が即位し、聖武の成人を待って譲位して上皇となりました。元明は710年に都を平城京に遷都した女帝です。この都は桓武天皇が長岡京に遷都するまで74年間続き、日本では始めての方形城でありました。不比等はこの事業にも大いに活躍し、町割や寺社誘致に奔走しました。彼自身も興福寺を建立しています。そして首皇子の即位を待つことなく、720年に亡くなっています。
不比等の死後は武智麻呂、房前、宇合、麻呂の四人、通称藤原四兄弟と呼ばれる強烈な個性を持つ政治家たちが後を嗣ぎました。まもなく彼らの甥に当たる聖武天皇が即位すると、彼らは絶大な権力を握りました。そして光明子が阿部内親王を産むと、これを皇太子としようと画策しました。[基王に関する記載は調査中のため、一時的に削除]。さらに聖武に皇后が居ない隙を衝いて、光明子は臣下として始めての皇后に冊立されました。これが名高い光明皇后です。聖武にもしもの事があれば藤原氏の女帝が出た可能性がありました。
しかし光明皇后の出現は、もう一人の人物を大いに浮上させました。葛城王こと橘諸兄(たちばなのもろえ)です。彼は敏達天皇の四世孫美努王の王子で、母は名門縣犬養氏の最後の当主で三千代(天武から聖武の六代に仕えた女官)でした。三千代は不比等と再婚して光明子を産んだため、諸兄は皇后の異父兄でありました。本来諸兄は天皇の五世孫ですから親王でもなく、臣下に下った身でありました。母に下賜された橘姓を嗣いで橘朝臣を名乗りました。この時代、父系よりも女系の方が血のつながりが濃かったので、光明子は藤原四兄弟以上に諸兄を重く用いました。他の豪族系廷臣を謀略により排除し続けた四兄弟でしたが、彼らが先に天然痘により相次いで死んだために諸兄の排除には及びませんでした。その対決は武智麻呂の子仲麻呂に引き継がれました。
四兄弟は一斉に亡くなりましたが、南家、北家、式家、京家のそれぞれ一家を成しており、これら四家が互いに競い合うことで藤原氏は巨大な勢力へと成長していきました。不比等が藤原氏に残した最大の功績は、これら四兄弟を授かり、いずれも立派な政治家に育て上げたことではなかったでしょうか。
98.06.09
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