壬申の乱で圧倒的勝利を収めて即位した天武天皇は、豪族に有利な階位制を一歩進めて八色の姓を採用しました。聖徳太子制定とされる冠位十二階は、大化三年、同五年に一層細分化された階位制に変更されていました。それぞれの有力豪族には指定席を与えていましたが、壬申の乱前後での戦功に応じて、豪族の位置づけを改め、彼らに新しい指定席を与える必要性が生じたのでした。
天武が完全な独裁権を掌握して、従来からの豪族の地位を臣下の位置へ押し下げたとも言え、これより始まる天武王朝の絶対王政化の第一歩を刻んだ政策であるとも言えます。
この王朝の最大の特徴は、女帝が多いことです。天武朝の天皇は、天武(40代)、持統(41代)、文武(42代)、元明(43代)、元正(44代)、聖武(45代)、孝謙(46代)、淳仁(47代)、称徳(48代、孝謙重祚)であり、9代のうち5代までが女帝であります。持統は天智の皇女ですが天武后であり、元明も天智の皇女ですが、草壁皇子后で文武・元正の母です。また舎人親王系の淳仁を除いた、文武と聖武は腺病質で病弱気味であったと伝えられ、典型的な女系皇統であったと考えられます。
天武王朝で最も輝かしい功績を残したのは聖武天皇です。東大寺に大仏を建立し、全国に国分寺と国分尼寺を整備し、仏教を核とした政教一体の統一王朝を創出した天皇です。この結果中央の威光を全国にもたらしましたが、その莫大な費用を捻出するために、聖武は全国に点在した「屯(みやけ)」と呼ばれる天皇家の常備軍を解散しました。
当時は大きな内乱もなく常備軍の必要がありませんでしたが、天皇家が固有の武力を放棄したことが、今後の歴史を大きく転換させることになりました。常備軍が廃止されたことにより、「駅鈴」と「印綬」を与えられた者が軍兵を現地調達することとなり、権臣による勝手な軍兵調達を許すことになったのです。
しかし絶頂に在ったのは、称徳天皇です。聖武の皇太子であった基王は夭折しており、聖武の直系は三人の内親王でした。長女の阿部内親王が選ばれて皇位につき孝謙と称したのです。女帝は始め藤原仲麻呂を重用しましたが早々と淳仁へ譲位し、上皇を名乗りました。ところが淳仁は仲麻呂の傀儡となり上皇を軽んじたため、上皇は駅鈴と印綬を取り上げた上で仲麻呂を討伐し、淳仁を退位させました。
実に簡単に書きましたが、畿内と越・濃・尾は全て仲麻呂一族に抑えられており、一歩誤れば上皇側が粛正された恐れがあったのです。上皇の背後にあった怪僧道鏡と名軍師吉備眞備の活躍により仲麻呂のクーデターは排除されたのです。淳仁を退位させた上皇は称徳と称し、天皇親政を実現しました。しかし専ら我が儘し放題となり、道鏡を太政禅師、ついで法皇に任じ、さらに道鏡への譲位を目論みました。あるいは性急な遷都を行い重臣を振り回しました。
称徳の死後、吉備眞備は天武系の智努王(文室浄三)を後継者に押しましたが、藤原百川らが称徳の遺言とする詔勅を持ち出して正真正銘の天智系の白壁王を即位させました。49代の光仁天皇です。そして再び天武系の皇子が即位することはありませんでした。これに伴い、吉備眞備以下称徳の寵臣は排除され、反動として藤原氏を引き上げたことにより、天武王朝と絶対王政の時代は終焉しました。そして歴史は、藤原氏全盛の時代へと展開していくのです。
98.06.09
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