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日本史の研究No.11
遣唐使は誰のため

 漢民族は自国の文化・国土を理想的なものと考え、これを中華と呼びました。対して、周辺諸国を蛮族とみなし、東夷、西戎、南蛮、北狄などと差別的に呼びました。その気位の高さは問題ですが、唐国は、世界を二分する大帝国の一方であり、そう大きな誤りでもなかったと言えます。周辺の蛮族が中華へ使者を遣わせることを朝貢といい、彼らの持参した貢ぎ物の数倍を使者に持たせて帰すのが習わしでありました。明国の時代、あまりにも多い朝貢に財政危機を生じ、1国あたりの朝貢の回数に制限を加えたほどでした。全くの見栄の文化です。
 我が国の歴史では、卑弥呼が魏国に遣いを出し、親魏倭王の金印と多数の青銅鏡を賜ったことが知られます。それに先立ち、奴国が金印を賜ったと伝わっています(志賀島で発見された金印です)。その後、聖徳太子が小野妹子を随国に遣わせました。これが遣隋使の始まりです。ここまでは明らかに外交が主眼にあり、倭王に封ぜられることも、数々の返礼品を受け取ることも副産物に過ぎなかったと考えられます。ところが、630年の犬上御田鍬(最後の遣隋使でもあった)から遣唐使が始まり、894年の菅原道真まで19回計画され、18回派遣されました。留学を大義名分としていましたが、いささか違ったようです。

 そもそも留学が主眼であれば、朝鮮半島経由で派遣しても良いはずです。朝鮮半島は新羅国が統一し、鎖国体制に入ったことも理由に成りますが、それだけでは危険な航海を敢行する理由には成りません。遣唐船は、長さ50mの帆船で約150人乗りでした(神戸ポートアイランドに復元船があります)。これを四艘で一組の一団として派遣されました。当初は朝鮮半島の沖合を進み黄海を経由する北路が主流でしたが、帆船で行くには風待ちの日数が掛かりすぎるため、直接上海あたりを目指す南路が採用されることになりました。各船には正使と副使が分乗し、留学生、学僧たちも各船に分乗しました。各船には貢ぎ物のほか日本の工芸品なども満載されましたが、潮に流され安南(ベトナム)やマレーに流されることも多かったようです。あるいは難破もして、4艘揃って唐に到着することは希であったのでした。
 そこまでの犠牲を払う理由は、まさに利権だと思います。中国から下賜される返礼品は遠くローマから運ばれたガラス器など貴重なものが多く、香料なども貴重でありました。こうした珍宝を皇室や貴族が独占的に確保するために朝貢を繰り返し、現地では特産品と宝物を交換するなど、富の独占を図ったのでしょう。しかし4艘送り込んで1艘帰るかどうかでは博打です。ハイリターンが見込めたからこそ、送り込む価値があったのです。また留学生や学僧達に命ぜられたことは、高名な中国僧を連れ帰ることと、多くの仏教教典を収集し持ち帰ることでした。我が国で得度をさせるために中国僧は、なかなか得られず、やっと鑑真を得ました。教典は写本も多かったようですが原本・稀覯本も含まれたにも関わらず、その多くは東シナ海の藻屑となりました。しかし空海や最澄が持ち帰った教典が、その後の日本仏教の発展に大いに役立っています。盗める限りのものを中国から盗んでくることが、遣唐使の指命であったのです。

#Nに菅原道真は遣唐使の打ち切りを提言しました。唐国が末期症状を示していることを理由に、派遣の危険性を説いて認められたのです。政情不安でろくな朝貢も得られず、留学生達の派遣も望めません。また、仏教に関してはほぼ目的を終えていたので、潮時でもあったと考えられます。907年に、将軍・朱全忠によって、唐国は滅ぼされています。結果として、道真の提言は当を得ていたことになります。
 ただ道真は、遣唐使に派遣されないままに、宇多・醍醐の両帝に重用されることになりました。藤原時平の恨みを買い、罠に填められて、太宰府へ流されることになりました(901年)。その3年後に道真は憤死しましたが、直後から天変地異が京で生じました。これは道真の祟りであるとされ、天神大神と祀られるようになりました。
 人の人生は分かりません。道真が素直に唐国に渡り、曲がりなりにも成果を上げて帰国していれば、藤原氏と覇を競うことなく、天寿を全うした確率が高いでしょう。その代わり、学問の神様と崇められることもなく、天神さんが生まれることも無かったのです。

98.06.10
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