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経済の研究No.122
庶民金融のはなし

 私には長い間疑問に思っていたことがあります。どうして日本には庶民金融がないのだろうか、と。江戸時代にはありました。昭和の初めぐらいまで在ったように思いました。しかし戦中の混乱と戦後の超インフレで消し飛んでしまったのかと考えていたのです。戦後、貯蓄に励む熱心な国民性が植え付けられて、庶民金融は存在の意義を失ったのだろうか、とも。
 消費者金融があるだろうって? お客様、それは誤解でございます。庶民のための庶民金融が年利20〜30%なんて暴利で貸すわけが無いじゃないですか。消費者金融は、真っ当な金融機関が貸してくれない相手に高リスク高リターンで資金を貸すのです。彼らは顧客から絞れるだけ絞って、最終的に顧客が破綻しても損はしないようにできています。庶民を思いやる気持ちは、サラサラありません。

■ 庶民金融はあった
 庶民金融はありました。戦前から一定の口数と給付金額を定め、庶民の虎の子を募って金品の給付を行う組織がありました。無尽会社というものです。戦時中の1931年に無尽業法が制定され、金融機関の一つとして認知される存在になりました。でも今は聞きませんよね。
 なぜなら無尽会社は、1951年に相互銀行へ衣替えしていたのです。無尽会社は勝手に無尽銀行などと称していましたが、とても銀行とは呼べない存在でした。戦中や戦後に相次いで出現した無尽会社は、暴力団まがいの胴元・闇金融の親玉・戦後成金など胡乱(うろん)な人物がオーナーでした。多くは高利の街金融だったようです。しかし激しい運動の結果、1951年の相互銀行法制定に漕ぎ着けたのです。
 相互銀行に期待されたのは、名の通り相互に支え合い融通し合うことで、庶民と利益を分け合う金融機関としての役割でした。しかし胡乱な人物が経営しているのですから、健全な庶民金融など期待できませんでした。無尽会社には、徳陽無尽(のちの徳陽シティ銀行、1997年に破綻)の早坂氏、東京共和殖産無尽(のちの東京相和銀行、1999年に破綻)の長田氏など海千山千の強者が揃っていました。

■ 変質した庶民金融
 相互銀行はさらに働き掛けを続けて1992年、普通銀行(第二地銀)に昇格しました。この点は第45回やがて地銀はいらなくなる」を参照して下さい。庶民金融として期待された相互銀行は、オーナーが自己満足を得るためだけに拡大を続けました。事業金融の担い手である信用金庫や信用組合のシェアを喰い、普通地銀(第一地銀)に追いつけ追い越せの活動をしてきました。効率の悪い庶民金融は切り捨てられたのです。
 狭い地盤にきめ細かな支店網を持っていた相互銀行は、こまめに預金を集める一方で、派手な貸出を展開しました。第一地銀に張り合うために無理な融資もし、バブル時代には怪しげな取引先にも融資をしました。ファミリー企業への情実融資など、オーナーによる私物化も目立ちました。その乱脈経営が現在の第二地銀破綻を招いている元凶です。
 全ての相互銀行が暴走したのではありません。オーナー色の薄い相互銀行は比較的堅実な経営に徹してきました。現在でも地元に根を張って充分な収益を確保している第二地銀があります。しかし、主に都市部の相互銀行で暴走したのが多かったことは事実で、徳陽シティ・なにわ・福徳・兵庫・幸福・東京相和……が有名ですね。本来の庶民金融を手掛けていれば、今の破綻は無かったはずです。
 とにかく大きくなりたい、とにかく格を上げたい、その一身でオーナー支配に甘んじた銀行が退場させられるのです。オーナー一族の二代目三代目が社長を務めている第二地銀はまだ多くあります。大手銀行や生保など機関投資家の資本を受け入れて、筆頭株主でさえないオーナーも多いのですが、パワーバランスの上に君臨しています。
 経営感覚に優れたオーナーであれば救いがありますが、血筋だけの凡庸なオーナーであれば困ります。ビッグバンを目前にして、オーナー支配の続く第二地銀はどうなって行くのでしょうか。

■ これからの庶民金融
 都銀の無担保ローンと、消費者金融の無担保融資との間には、埋めきれないリスク差と金利差があります。ただ銀行に預けるだけで資産が増えた時代は終わり、預金者は自主運用の道を探る必要が出ています。その隙間を埋めることができるのは、第二地銀だけだと思っています。ビッグバンとなればリスクの大きい第二地銀に預金を預ける人は減るでしょう。高利で預金をつなぎ止めても、その預金を都銀や第一地銀と同じ融資先へ融資したのでは、体力的にジリ貧です。
 それならば、企業融資主体の事業金融をやめて、個人相手の庶民金融に徹してみてはどうでしょう。支店網はどこよりも細かく、庶民に接しやすい環境が整っています。企業融資よりもリスクが増えるだけ高い金利が取れるはずで、都銀と消費者金融の隙間を狙うなら年利10%台でも稼げます。都銀に相手にされず、消費者金融の敷居を跨げない顧客が、上客になるでしょう。
 庶民金融として生き残るためには、やっておくことがあります。まず事業金融を縮小して不良債権を処理すること、次にオーナー経営を脱して透明性の高い経営を目指すこと、コスト削減に取り組み競争力を生み出す努力をすること、庶民金融としての査定や回収のノウハウを積み上げること、などです。庶民金融として生きるのに最も適した第二地銀ですが、生き残るためのハードルは結構高い様子です。

99.07.26

補足1
 無尽会社の相互銀行化は、顧客が望んだ結果であったと思われません。これを仕掛けたのは本文中に書いた徳陽無尽の早坂氏です。地元出身で親しい間柄だった大蔵省銀行局長の愛知一揆氏(のち政治家に転じて大蔵大臣)に働きかけて実現させたもので、銀行経営者としての名誉を欲したという個人的動機が引き金だったそうです。
 相互銀行の普通銀行化も同じ理由でしたが、結局は普通銀行との線引きは消えず、第二地銀と呼ばれ続けています。しかし無尽会社時代から見れば随分と成り上がったものです。一時は広域合併などで地元第一地銀を追い越し、トップ地銀化を目指した第二地銀もありました。また普通銀行化で頭取を名乗れるようになったため、社長から呼称を代えたオーナーが多かったと聞いています。オーナー達の名誉への執着は強かったのですね。
 結局、身丈に合わない高成長を目指した第二地銀は退場し、堅実を維持した第二地銀は生き残りました。ただし、これからの再編は避けられないでしょうが。

99.07.26

補足2
 破綻した第二地銀が大都市に集中しているのは、競争相手が多かったことや確固たる地盤を形成しにくかったという背景もあります。中心部や大手企業には都銀が影響力を行使し、中堅企業には第一地銀が攻勢を掛けるという構図で、どうしても無理な融資拡大に走る必要があったのでしょう。地方の第二地銀はバブルに踊ろうにも踊るための融資先が見つけられなかったという背景の違いも見られます。
 一方で地方の第一地銀がダメージを受けていることも気になります。第二地銀の追い上げに苦しんだり、だぶついた余剰資金の填め込み先に困って、大都市の支店を舞台として乱脈融資を拡大した第一地銀も多かったようです。第二地銀が本来の庶民金融に徹していれば、棲み分けが進んで被らなかったダメージかも知れません。

99.07.26

補足3
 お客様から指摘がありましたので、補足します。本文中にもありますが、銀行の無担保ローンと庶民金融は別物です。庶民金融は、もう少し概念の広いものです。
 銀行の無担保ローンは年利11%〜16%前後の商品ですが、その上限は概ね50万円から100万円です(バブル期には300万円から500万円もありましたが、現在大幅に引き下げ)。金額は少ないですし、一律与信なので、使い勝手もそう良いものではありません。
 庶民金融は金額的にはもう少し纏まった資金を貸すもので、元金据え置きとか、ボーナスのみ払いとか、金利は個別に相談とか、そういう貸し方です。なぜ第二地銀には可能かと言いますと、地域に密着した店舗網を持つためです。支店エリア内の庶民だけを相手に与信をするなら、きめ細かい与信管理が可能になります。ただ、近頃は簡単に引越ができるので、信用貸しになる昔のような庶民金融は難しいかも知れません。
 「借りた金は必ず返す」という借りる側のモラルを根付かせる方策のほうが先に必要かも知れません。そして「返せない客には絶対に貸さない。客が必要とする以上の資金をノルマ貸ししない」という貸す側のモラルも確立しないと行けませんね。
 読者の方から情報があったのは、長崎県のある信用組合。年利15%の庶民金融を始めているとのお話ですが、単なる無担保ローンではないのかどうか調査中です。しかし信用組合は本来事業金融をするべき金融機関です。庶民金融にあまり重点を置くべきではありませんが・・・。

99.07.27

補足4
 補足3の長崎県の信用組合に関して詳細が分かりました。この信用組合は、長崎県佐世保市に本店がある長崎県民信用組合です。預金量はわずか390億円ですが、14支店220人の役職員という低効率経営です。ただ庶民金融へ大きく舵を取ったことに注目が集まっています。以下、週刊ダイヤモンド1998年4月1日の記事から。
 「多重債務の方、保証かぶりの方、毎月のお支払いが多くてお困りの方へ朗報」という紹介屋(第136回を参照)もどきのチラシを持って歩くのは同組合の職員です。消費者金融や信販会社からの多額の借入金に苦しむ人の相談に乗り、ローンの一括借り換えをするそうです。1996年度は11,775件もの相談を受けるなど積極的で、土日の相談も受け付けている特殊サービスです。
 金利は12%で、延滞なく返済が続くと毎年1%ずつ切り下がって最低9%になるそうです。一方で、1994年12月に開始した、組合員に対する金利3%の三角普通預金で資金を調達して原資にしています。その後1996年から一般からも預金受入を開始しています。使い道が消費者金融であることが高金利を提示できる根拠であるようです。
*怏~までの小口(消費者金融よりは大口ですが、事業金融よりは小さいという意味です)に分散し、与信もリスク管理も自ら行うことでコストを削減したそうです。同時に広告も景品も打たず、預金の集金も行わないなど徹底したコスト削減も強みだと紹介されていました。
 制度を導入した1994年から預金残高は順調に増加しており、対称的に貸出金延滞率もピークの13%(1992年)から4%(1997年)へ順調に減少して、戦略の正しさを証明し始めているそうです。最新のデータはありませんが、この傾向が続いているようなら、他の金融機関も追随していくかも知れませんね。

99.10.09

補足5
 金融機関全体の個人ローンは1992年をピークに減少を続けています。7年連続して減少傾向を示しており、焦げ付きを怖れて蛇口を絞っているのは間違いありません。これまでオープンにしていなかった消費者金融のホワイトデータ(健全債権情報)が開放されるそうです。金融機関は、争うようにして消費者金融の顧客への貸出を引き揚げる可能性があります。困ったものです。
 ピークは1992年3月の19兆円で、1999年3月は12.4兆円となっています。自動車ローンや教育ローンも低迷していますが、無目的のカードローン単体で33%減の2.7兆円となっているのが特徴的です。同時期の消費者金融の残高増加は2.8兆円というのは、湧き出た数字ではなく、金融機関から閉め出されてきた数字のようですね。

99.10.10

補足6
 さくら銀行は、都市銀行の中ではじめて消費者向け小口ローンを手掛けるとのことです。エーエム・ピーエムや三洋信販と提携し、全く畑の違う消費者金融のノウハウを積み上げていくという計画なので、本格的になるのは先の話ですが、自らリスク管理に乗り出すとともに、庶民金融に手を染める努力をすることは評価されます。与信者に対する貸出基準を判断するスコアリングは、独自に構築していく必要があり、立ち上げだけで2〜3年は必要との声があります。必要なコストもかなりの水準に達する者と見込まれ、提携相手との取り組みにも注目が必要でしょうか。

99.11.17

補足7
 するが銀行は、個人顧客を対象に取引実績を元にした個人融資枠を設定する新サービスを導入すると発表しました。ほとんど一律に融資限度額を設定しているカードローンとは別に、法人融資に採用している融資枠制度を応用した変額式の個別ローンを提供するのが狙いのようです。常時顧客の利用実績を把握し、即日のローン申し込みに対応できる体制も整えるそうです。

00.05.20

補足8
 補足6の続きです。三洋信販は、信販・クレジットカード業界の情報データベースであるCICに加盟し、消費者金融会社として初めて2業界のデータベースに直接アクセスすることに成りました。業界を跨いでのホワイトデータ交換では、テラネット構想第180回を参照)も話題になっていますが、単独企業としては「快挙」になります。
 消費者金融会社が、信販・クレジット系の顧客データに基づいて多重債務者への融資を慎重に行うのであれば良いですが、逆に多重債務者への営業を行うことになると、大きな問題です。個人破産の総件数は、2001年度で17.3万件にまで達し、7年連続で3倍強にまで拡大しています。安易な与信が破産を増やしているとの批判もあり、ホワイトデータが正しく活用されることを望みます。

02.06.15
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