「天使」といえば、頭に蛍光灯、背に純白の翼を背負ったイメージですか? 確かにキリスト教のエンジェルが随一かも知れません。エンジェルは、女性的から中性的イメージへ昇華されています。しかし、非人的イメージは定着していません。そうした教派もあったようですが、異端として廃されたそうです。マリア受胎告知、キリスト生誕のイメージが崩れますし・・。
しかし、天使は天よりの使いです。人智を越えた存在である神、もしくは創造主。その使いですから、どんな姿でも許されるはずです。むしろ人智を越えるという意味で、異形の精霊という方が、本当らしいかも知れませんよね。精霊といえば、西欧では擬人化されたものが多いですけれど、これもエンジェルと同様。むしろ自然に同化し、溶け込んでいるというべき存在です。「居るではなく、在る」というのが精霊だと考えています。そして「見るではなく、感じる」なのでしょうね、きっと。
古くからある精霊思想(かなり、怪しい)によれば、四大元素である地・水・風・火の四大精霊があり、数多い精霊達もこれら四大に分類されるそうです。これに光を加えて五大、あるいは闇を加えて六大となるようです。天使は、光。悪魔は、闇。ほら、天使も精霊の仲間っぽいでしょう?
ここまで、言い訳をしてきました。言わんとすることは、お分かりですね。天使を見たと言い張るとして、それは擬人的なエンジェルをイメージしないでください。そういう前説でした。
それは、三年前の2月頃でした。外を出歩くには、コートが必要な季節。当時4人目のお見合い相手と、日比谷公園を散策したのでした。銀座の雑貨屋で待ち合わせ、イタリア料理店でパスタ、公園散策、その後博物館・・というとんでもないコースの上に、とにかく歩きっぱなしでした。大噴水を背にしつつ、第二花壇を眺めながら。当たり障りのない会話をしていた時です。
朝方の曇天は、午から晴れ間を見せ始めていました。第二花壇と言っても・・大噴水から公会堂までの長大なスペース。一面の芝生で、広場の周囲にささやかな花が植わっているだけで、一面が花で覆われていませんでした。公会堂側に高台があり、ポールが生えています。その花壇をボンヤリと眺めながら、結婚とかしたら、こんな話を続けるのかな、中身が薄くて、独創性なくて・・。今考えると、なんと我が儘な感情だったでしょう。
そのとき、花壇の高台に、天使を見たのです。曇天で薄暗い芝生の中で、高台の斜面にだけ陽が指した・・だけというのが視覚的な全てです。キラキラ輝いたとか、光と影のカクテルが云々なんてことはなく、ただパーーーッと陽が当たっただけなのでした。時間にして、3分足らず。その情景をボンヤリと眺めながら、意味もなく神々しいシチュエーションに感動を覚えたのでした。
その10分後。中途半端な応答に飽いた彼女は、博物館の予定をキャンセルし、ご丁寧な三行半を下さいました。。。過去8人の見合い相手の中で、唯一2度以上お会い下さった女性でしたが、とても申し訳ないことをしました。その日、天使に見とれることが無かったら、今頃は平穏無事な家庭を持って、こんなHPに命を懸ける人生も無かったかも。
私は昔、光の精霊を、天使を見ました。あの頃はまだ20代最後の歳で・・。その日天使を見ることが無かったら、きっと平々凡々な人生を送っていたはずだったのです。誰に対するでもなく、いつか昔話をしていることでしょう。
02.03.03
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