世の中、まだまだ下り坂です。昨年のITバブルは遠い昔で、新聞もTVも悲観論が支配的であります。初夏までは景気の底という声もありましたが、米国経済の危機も加わってか、経済・政治・社会への不安が拡がっています。得てして、悲観論は報われないことが多いと考えています。楽観論が支配的な中では、悲観論は軽蔑され非難されます。悲観論が支配的な中では、さらなる悲観論は忌み嫌われます。
それでも悲観論の大事なことは、世の中に警鐘を鳴らすことに意味があります。誰もが楽観に傾く中で、冷水を浴びせることで、危機的な楽観を避けられます。もちろん悲観論を吐く者が報われることはありませんが、それでも世の中の役には立ちます。逆に楽観論は、多くの人々に歓迎されますが、実際は何も役に立たないことが多いです。ただし、悲観論の蔓延る中では、希望を持たせることに意義があるでしょう。
さて、本題。一般に悲観論者と悲観主義者は同一視されますが、似て非なる存在です。言ってみれば、左翼と極左ほどの違いがあります。右翼と極右でも良いでしょう。つまり、悲観主義者は究極の悲観に浸っており、自ら論を展開するまでもなく、ただジッと悲観し続けています。悲観論者は、半ば悲観に浸りますが、まだ半ばは楽観を抱いています。論じることにより、最悪の悲観を避けられるのではないかと考えるわけです。
逆に、楽観論者と楽観主義者は似たような存在かも知れません。得てして、楽観主義者は楽観論をブチます。しかし、楽観主義者の楽観論は非論理的で夢想的です。より理論的で現実的な楽観論を述べる者は、意外に悲観論者と同じであったりします。つまり、世の中を先を読むことで、楽観と悲観を論じ分けるということで、中間的な存在に当たるかも知れません。
何故こんなテーマを扱うかと申しますと、今は悲観論者が多すぎます。悲観主義者は少数派ながら、次第に勢力を増しています。悲観論者から悲観主義者に転じる者も少なくありません。一方で楽観論者は勢力を失い、楽観主義者も論者を通り越して、悲観主義者に天じる模様です。世間が悲観主義で一色なのは、避けるべきでしょう。それは極左政権や極右政権が、政治を壟断するのと同じ状態、あるいは一層悪い状態です。
経済は難しいでしょう。政治もそろそろ限界です。せめて社会で何か良いことが続けば良いのですが・・。どんな小さな事件でも、明るいニュース、楽しいニュース、ほのぼのニュース、そういうものを集中的に報道してくれるマスメディアが増えれば、少しは世の中に楽観が拡がるでしょう。私は悲観論者ですが、そろそろ楽観論者に転向しようかと思案しているのであります。
01.09.22
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