誰の前でも格好良く生きるのは、大変な労力が必要です。それだけのために、全人生を捧げなくてはダメなぐらいに、凄いパワーが要るようです。「キザなヤツ」は、少し違います。本人は格好良く生きているつもりでも、周囲からは滑稽に見られているのですから。変に気配りの良い、「マメマメ君」も違いますね。
いわゆるダンディズムが、正しいかも知れません。ただダンディズムは、異性に対するものが強く、同性には酷薄というのが、一般的だと思います。異性にも同性にも格好良いのは、ダンディズムに外れると思っています(個人的に)。美学としてなら、騎士道や武士道がありますが、これも学問であって実践は難しいです。真に格好良く生きるというのは、極めて困難を伴うかと。
少し視点を、変えてみましょう。任侠の世界では、一介のヤクザ者が一人の堅気の女性、あるいは未亡人となった姉御などに、操を立てる話が絵に成ります。彼らが命を張っているにしても、闇雲に命を危険に曝すのは、チンピラです。任侠で絵になるのは、その操を守るために命を捨てる姿勢が美しいからでしょう。自分のスケとは違う、操を立てるべき唯一の存在。
ただ一人のためだけに、格好良く生きるのであれば、誰でも可能でありましょう。何よりも疲れませんし、一人であれば気合いが入ろうというものです。命に関わる危険に及ばないサラリーマンでも、一人のためには格好良く生きられるでしょう。それが、一人っ娘や一人っ弟、一人っ妹だったりするでしょう。奥様のような存在であると、これは本音で付き合う時間が増えるだけ、大変でしょう。長続きしないと思います。
渡世人は、美学に拘ります。太く短いのが、最良の人生だと考えている風です。太く短いためには、熱く激しいモノが必要でしょう。人は誰しも、だた一人の人には美学を貫けると思います。同時に二人は、半端に終わることでしょう。同時でなければ、複数人でも構わないと思います。
当然でありますが、ただ一人の相手には、それを悟らせないことも大切です。相手に悟られるよう美学を追究すれば、相手にも負担が大きく、十分に達成できないでしょう。でも、何も気づいてくれない相手に美学を貫いても、独り相撲です。意味がありませんね。自分のそれを気づいてくれつつ、それでも見て見ぬ振りをしてくれるのが、美学成立の条件であると考えています。相手あっての、美学成立。
冒頭近くで書きましたが、美学に異性も同性も問わないはずです。儒学の行き渡らない時代の忠孝・忠義・仁義などは、江戸時代以降の作り物で無かっただけ、自然な発露となって美学を結んだと考えます。サラリーマンと言えども、立派な渡世人であります。自分を格好良く押し通し、美学を完成させてくれる相手があれば、それを貫いても良いのではないでしょうか。
アドリア海の飛行艇乗りの物語も、ラブストーリーに仕立ててしまう味気ない世の中ですけれど・・・
01.05.05
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