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雑記帳No.088
千代田城 の 風穴

 現在の東京の繁栄は、徳川家康の江戸入りと千代田城建設に始まりますが、どうして江戸だったのでしょうか。三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の5カ国を領していた家康は、豊臣秀吉の小田原征伐直後に関東移封を命じられ、同時に江戸を拠点とするよう指示されたと伝わっています(秀吉は小田原を使うなと言っただけとも)。家康による天下取りを封じるため、家康を見知らぬ土地に追い払い、東海道を子飼いの武将で固めるのが狙いでしたが・・・完全な裏目に出たのは、ご存じのとおりです。
 しかし、当時の江戸は「周囲が見渡す限りの関東平野」という以上の利点がない寒村だったそうです。戦国初期の名将・太田道灌が、日比谷入江に近い台地に江戸城を築いたそうですが、街道を脅かす以上の価値は無かったような小城です。当時の正確な絵図面が残っていないのですが・・・王城の地に相応しい立地だったとは思えません。しかし家康晩年から千代田城の堀割が始まり、秀忠・家光の三代によって埋立と拡張が進んで、現在の城域が確定されたということです。
 昔は立派な天守閣もあったそうですが、焼失ののち再建されず幕末を迎えました。明治維新後、明治天皇による江戸行幸があって、その後東京と名を変えて、王都に定められたのは周知の通りです。明治維新後も京都が王都でありつづければ、今日の東京の繁栄は無かったのではないでしょうか。不思議ですね。

 と前置きをしまして、時代は現在。皇居は、かつての千代田城よりも若干小さくなっていますが、人口密度が著しく減少したことも手伝って、17世紀以来の自然が豊富に残っています。高層ビルの建ち並ぶ東京都心の中心に、ポッカリ取り残されたミラクルな空間です。都内には旧離宮を始め自然が色濃く残っている公園が多々ありますが、やはり皇居は別格です。
 職場から近いので、ポン太は皇居周辺をよく歩きます。いつも感じるのは、皇居周辺で風が強いことです。周囲を遮るモノが少ないということもあるのでしょうが、夕方はとくに大きな風が吹いていますね。しかし東側に吹く風はJR東海道線の高架に阻まれ、北側と西側に吹く風はビル街に弱められ、南側だけが日比谷公園と桜田通りを抜けて拡がっていきます。
 不思議に感じるのは、いつも皇居側から風が吹いていることです(本当はそんなはずがないのですけど・・・ぐるっと皇居を回ってみても、風は皇居側から吹いている感じがするのです)。ひょっとして皇居の中には、風穴(風の湧き出すポイント)でもあるのでしょうか、なんてね。

 皇居に近い場所に平将門の首塚があります。今でも祟りがあると噂される首塚は、胴体から切り離されて京都で晒された将門の首だけが飛んできて、力尽きて落ちた場所に当たるのだそうです(実際は関東の誰かが盗んできて、神田の社に葬ったということらしいですが)。罪人として処断された彼が、あやかしの力を宿らせて飛んできたのでしょうかね。
 この将門が、関東で覇を誇っていた当時は、強い風の加護を受けていたと言われています。彼の後ろからは常に強風が吹き、それを追い風にして戦に勝ち進んだとか、どうだとか。風を味方に付けた将門、その風に運ばれた将門の首、その首の落下点近くに作られた巨城、その巨城の周辺に沸き起こる謎の風!
 皇居の北にある神田明神は、将門を祀っています。主神扱いだと言っても良いのですが、朝敵の汚名は晴らされていないので、今も神様では無いですね。神田祭は将門を慰める祭ですし、今でも東京と将門の関係は深いようです。なぜ将門と関係が深い江戸の地を本拠地にしたのでしょうか。

 むかしは風水学とかを重んじたそうですね。関東平野を治めるためには、王城を江戸に作る必要があって、その江戸城を作ることによって、ある種の風穴みたいなモノを封じる必要があった・・・なんて考えれば、ちょっとロマンチックではありませんか。

99.12.04
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