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雑記帳No.073
深澤姓 の 由来

 いつの間にかハンドル名が変わったことに気付いて下さいましたか? これまで「タヌ吉ポン太」と称していました。しかし、姓がタヌ吉では問題が多いと指摘されましたので、「深澤ポン太」に改めたものです。もちろん本名ではありません。
 タヌ吉のハンドル名は、職場の同期が付けてくれたもので、私は好きです。しかし、お客様がメールを下さる場合を考えると・・確かにね。これまで、タヌ吉宛のメールは頂いていません。最近は深澤宛のメールを頂くようになりましたので、きっと気にして下さったのですね。

 ホームページのタイトルも「深澤ポン太の……」に改めましたので、ご質問を頂いたりしています。最近、インターネットで「ポン太」「ぽん太」「ぽんた」「ポンタ」のハンドル名がたくさん使われています。私が開設した当時はお二人ぐらいでしたが、最近では二十人近いようです。ほかにペットの愛称として、紹介HPも見受けますので・・もう何だか分かりませんね。そこでハンドル名を変えたこともあり、差別化を図るためにタイトルを変更した次第です。
 この1年間、主要なポータルサイトで紹介していただきました。サーチエンジンでもInfoseekさま、Lycosさま、Yahoo!さま、FreshEyeさまがお奨めサイトに加えて下さっています。感謝、感謝です。読者の皆さまが張って下さっている当方へのリンクも150サイトを超えました(特定テーマのみも含む)。有り難いことです。できれば、期待を裏切らぬように頑張りたいものです。

 また、本題から外れましたねぇ。深澤の由来です。
 私の尊敬する人物の1人に、深代惇郎氏があります。朝日新聞社の名コラムニストとして名高かった人物ですが、若くして亡くなられました。氏の業績を偲ぶ意味で、何冊かのコラム集が販売されています。天声人語というコラムの限られた文字数に、豊富なキーワードを盛り込むのが上手で、文体やストーリー立てが見事で、取り上げたテーマも自然・社会・経済・流行・歴史など多彩でした。
 コラムを執筆していたのは3年間と限られた期間でしたが、敗血症で入院するまで書き続けられました。そのまま帰らぬ人となりました・・・身を削ってコラムを書いて居られたのですね(本業の論説委員というお仕事がありましたが)。目先の話題をただ追うのではなく、自ら収集し吟味を尽くした話題を練りに練って書かれた名コラムばかりで、掲載当時から人気が高かったと聞いています。私の憧れの人であり、理想の人であります。

 もう1人に澤田明彦氏という批評家があります。あまり名は売れていなかったので、ご存じない方が多いかも知れません。分析力のある人で、構成力もあり、文章を巧みに構築することで知られていました。切り口は鋭いのですが、絶対に人物や作品を褒めないので、金になる仕事はほとんどできなかったと、本人の弁です。こちらも、すでに亡くなられています。
 氏の批評は、綿密に収集した情報を書き留めたメモが命です。小さいメモ用紙に気の向くままキーワードやデータを書き記し、これを大判の大学ノートに糊付けして整理する手法でした。メモの中身は文章を構成するに至りませんが、いろいろな記号を使って簡潔に記されていました。私も見習っていますが、上手に整理できていません。
 批評文を書き起こすときはメモを片手に進め、原稿用紙4枚を1時間と豪語しておられました。驚くことに講演などでも、同じ調子でスラスラ文章になっていく見事な芸を持って居られました。私の目標としている人物でありますが、まだまだ名人の域には達せそうにありません。

 つまり深澤とは、深代氏の「」、澤田氏の「」を一文字ずつ勝手に頂いた名前なのです。その昔、木下藤吉郎が先輩格の柴田勝家と丹羽長秀から名を拝借して「羽柴」と称した故事に倣ったものです。先輩への露骨なゴマスリと揶揄されましたが、豊臣太閤となってからも羽柴姓を下賜するなど、結構本気で大事にしていたようなので、そこのところも見習いたいと思っています。
 願わくは先人に少しでも近づけることを。多くの読者の厳しい目に耐えうる名作を生み出せることを。名を記憶に留めてくれる人が1人でも多くなることを。願いつつ更新を続けていきたいと思います。

99.09.27
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