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雑記帳No.072
アンチ 以心伝心

 たしか禅宗の言葉だと思いますが、以心伝心とは「一方の考えていることを、言葉に出さないで他方に伝えること」でしたよね。長年行動をともにした親友、長年連れ添った夫婦、長年接してきた師弟、そんな間で成立するものなのだそうです。
 しかし、本当に存るのでしょうか? ちょとした知人でも、表情や仕草から困っているとか、怒っているとか分かることがあります。それでも直接質してみないことには、当たっているかどうか分かりません。一度分かれば、また同じ様な表情や仕草を見掛ければ、高い確率で言い当てることができます。親友や夫婦でも同じコトではないでしょうか、長い時間を掛けて多くのデータを集めた結果、経験的に分かるようになっただけで、以心伝心では無いような気がします。

 ある老夫婦の話ですが、急に仲が悪くなったことがありました。定年退職後、趣味にも飽きた爺さんが、することもなく自宅で暇を持て余していました。今までは不都合を感じなかったのに、婆さんと顔を合わせる時間が長くなったのに反比例して、以心伝心で用事が済まなくなったと嘆いたのが悪いのでした。
 本当に以心伝心が成立していたのか、と思って婆さんから話を聞いてみました。そうしたら違うと言うのですよね。いつも経験的に判断したとおりにお茶を出し、新聞を渡し、飯を食わせていただけで、婆さんの先回りした行動を、爺さんは以心伝心と長い間勘違いしていたそうなのです。
 結局のところ、今までと生活パターンが変わって爺さんの考えが先読みできなくなったこと、爺さんが気難しくなって同じ仕草でも要求が違ったりすること、婆さんもいい加減気遣いに疲れたこと、が爺さんの不満に繋がったのでした。爺さんは自分の我が儘を上手に処理してくれる婆さんには、自分の考えが電波のように伝わっていると勘違いしていたのです。
 原因は分かったのですが、爺さんとしては、何でも口で説明するのは面倒です。仕方なく、新しい趣味を見つけるために毎日遠出するように成ったと言うことです。婆さんとのリズムを取り戻し、何とか騒ぎも収まりましたが・・やはり以心伝心は無いのでしょうか?

 私の場合、心の許せる親友は少数ながら居ます。いつかも書きましたが、彼らと頻繁に顔を合わせていたときは、まさに以心伝心を感じていました。目と目が合っただけで次の行動が決まりましたので・・そう信じていたのです。しかし、互いに社会人になり顔を合わせる機会が減ってしまうと、もう大変です。話や行動がかみ合わずギクシャクします。
 距離ができたから以心伝心で無くなったのか、やはり単に経験や訓練で以心伝心ごっこに興じていたのか・・分かりません。それでも昔の話をしていたり、昔の居酒屋とかへ出掛けたりすれば、以心伝心もどきが可能になるのですから、たぶん以心伝心ごっこに興じていたという方が本当なのでしょう。これからはギクシャクした関係を顕在化させないためにも、必要以上に気を配って以心伝心ごっこを続けることにしましょう。数少ない刎頸の友ですから。

 という理由でポン太は、アンチ以心伝心です。心と心が直接繋がるということは錯覚だと思います。知らず知らずのうちに経験や訓練が積まれて、分かったような気になれるだけだと思います。なので、本当は全く違うことを考えていたのに、気まずくなるのが嫌で調子を合わせていただけなのかも知れません。相手のペースに任せて、自分ではっきりした意志を主張していなかっただけかも知れません。
 でも、以心伝心ごっこは必要だと感じています。仲間との連帯感、連れ合いとの一体感、そういう曖昧なものを心の支えにして生活することのメリットは否定できないからです。それを曖昧なまま守り抜くことも、時と場合によっては必要なのだと感じています。ただ、過信は禁物なのだと思います。無意識でも精神的な負担を生んでいるはずですから、最低限必要なことは明瞭な言葉で伝えるべきだと思います。

 自分は何をしたいのか、相手に何をして欲しいのか、相手に何をして上げたいのか。自分は相手のどこが好きなのか、どこが気に入らないのか。エトセトラ、エトセトラ・・・。とくに好悪の感情なんて、口に出してみると意外な展開になることもありますから、勝手な以心伝心では後悔することもあるのでは?

99.09.20
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