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雑記帳No.012
忍 者 の 里

 あなたの子供時代、大人の知らない空間、大人には見えない空間で遊んだ記憶はありませんか。

 近所の路地裏はスリリングな空間であり、人の家の裏を彷徨い歩くので、好奇心であふれていた我々には大冒険でもあります。意外な出口や、町の隙間にポッカリと開いた広場を発見するなど、日々探検に明け暮れました。下水道が発達していなかった当時は、トイレは酌み取りでした。雨水は路地裏の側溝を経てドブへと流れ込んでいたため、側溝を含む細い通路が町中縦横に張り巡らされていました。行動範囲が広がると他の町の子供たちと路地裏情報の交換などもしまして、新たに探検を繰り返していたわけです。
 小学生の低学年までは近所の路地裏で随分と遊びましたが、下水道整備が進み、4年生ぐらいのころから路地裏の閉鎖が進められました。おそらく警察の指導もあったのでしょうが、板塀が着けられたり、鉄格子が填められたり、建替の際に塀が迫り出して埋められたり、と町の遊び場が奪われてしまったのは悲しかったです。

 それからは新たな探検の時代が始まりました。友達と連れ立って遊ぶことを覚えたのはこの頃でしょうか。どこかに怪しい空間を見つけると、直ちに探検に行く習性が身に付きました。ドブ川を潜って河川に抜けられるかどうか試したり、小学校の屋上を半年に亘って占拠したり、山の向こうに急に現れたUFO状モニュメントの探索に出掛けたり、しました。

 そして「忍者の里」を発見したのです。「平和台プール」(冬場はスケートリンクになる)の近くに「忍者の里」という看板が立つ怪しい原っぱがあり、原っぱを囲むように小さい森がありました。車道からの入り口は狭くて分かりにくいのですが、プール帰りに良く遊んで帰りました。回数にして十数回だったろうと思います。20歳のころ、懐かしくなって出掛けてみましたが、現在は造成されて住宅が建ち並んでいます。地図で確かめてみてもその背後に大きな空き地があったようには見えず、住宅の裏手直ぐに高い崖があるのです。住宅造成の際に土が大量に運び出されて崖ができたのかも知れませんが、何度か訪れた忍者の里が、影も形もないことが不思議でなりません。

 また須磨離宮公園の裏側に「幽霊谷」と呼ばれる谷がありました。神戸空襲があったとき米軍機が余った爆弾を大量投棄して帰った場所ですが、防空壕に避難していた人たちが大勢亡くなったそうです。今でも慰霊の観音像が立っており、ここから横尾へ抜ける山道が不気味でした。霧が充満している谷間の道では、正面から人が歩いてきても、それを見つめてはいけないと脅かされて肝試しに歩かされました。結局は出会うはずもないのですが、シャツと背中のリュックの間に溜まる汗が薄気味悪く感じられるミステリーゾーンでした・・・。後日談。同じように肝試しをしていたグループで男の子が行方不明になったそうです。それからは肝試しに行くこともなくなり、ホッとしています。

 子供の時には、大人には見つけられない不思議な空間への入り口が見えたのかも知れません。

98.02.28

補足1
 ポン太の研究を廃止するに伴い、ポン太の研究第5回から移転させました。

01.01.02
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