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6.四大姓について

 四大姓とは、いわゆる源平藤橘、つまり源朝臣平朝臣藤原朝臣橘朝臣を指します。天武朝に数多くあった姓を8つ(ただし3つは使われなかった)に整理しました。しかしその後の歴史において多くの氏族が没落し、代わってこれら四大姓が残りました。とくに藤原朝臣は幕末期の公家の80%以上を占め、残る20%の多くも源朝臣と平朝臣が占めています。全国的に見ても藤原朝臣、源朝臣および平朝臣で90%を占めるのではないかと言われています

 源朝臣は、嵯峨天皇が自らの皇子たちを臣下の列に加えるに際し、北魏の世祖の故事に習いという姓を選んだと伝えられています。帝には多数の皇子がおり、全員に宮家を立てさせ封土を与えられない事情がありました。これ以降、仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上・冷泉・花山・一條・後三條・後嵯峨・後深草・亀山・後二条・正親町の皇子たちがみな源朝臣を賜っています。最も栄えたのは清和源氏です。

 平朝臣は、桓武天皇が創設した平安京からの一字を取ったことに始まると伝わり、桓武・仁明・文徳・光孝の皇子たちが平姓を賜っています。桓武平氏が最も栄えています。仁明以下は実質的に源氏でありますが、皇子たちの幾人かが意図的に平姓を選択したものらしいです

 藤原朝臣は、藤原鎌足の子不比等が朝臣姓を賜ったもので、公家のほか、関東を中心に武家として派生氏族も多いです。また荘園時代に藤原氏と縁組みをした氏族も多く、その大半が藤原朝臣を冒しているという事情もあります。しかし、押しも押されぬ大族であります

 橘朝臣は、他の三者に比して非常に勢力が小さいです。しかし氏祖諸兄が左右大臣を歴任したこと、嵯峨天皇の后壇林皇后が橘氏の出身であること、などが理由にあるらしいです。また橘宿禰姓は諸兄の母三千代が賜った姓であり、彼女の3人の娘牟漏女王(父は美奴王。藤原房前妻、永手・真楯母)、光明子(父は藤原不比等。聖武天皇后、孝謙天皇母)、多比能(父は藤原不比等。橘諸兄室、奈良麻呂母)を介して、天皇家・藤原氏・橘氏は強力に結びついていますから、名門の一角であることに違いはありません