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4.女系図について

 この諸家系譜で扱う家系図は正確に言うならば父系図です。これとは反対に女系図があります。古代では、血族集団は母権制の社会から構成されていたので、母系図の方が重要視されています。また平安時代までは通い婚が主体であり、産まれた子供達が母親の実家で育てられたことは周知の事実です

 「」についての意識は育てられた家の環境で決まると考えています。母親の実家で育てられた子供は、母親の実家の考え方に染まり、異母兄弟とは異なる考え方を持つはずです。そして父親の「」を相続したとしても、その考え方は継承されて母親の実家の利益を重視することでしょう。だからこそ、有力氏族に娘を送り込み、跡継ぎが生まれれば、外戚として力を奮うことができたといえます。蘇我氏然り、藤原氏然り、北條氏然りです
 通い婚が廃れた後も、母親が中心となって子供の養育を行うことは一般的でありますから、母親の考え方、ひいては母親の実家の考え方が色濃く反映されたと考えています。また乳母が養育係を務める場合は、母親よりも乳母の考え方を色濃く受け継ぐことでしょう。このように子供がどのような考え方を持つかを考える上では女系を意識する必要が大きいわけです

 女系の場合、新しい発見をすることがあります。周知の例ですが、織田信長の妹お市には浅井長政との間に1男3女があります。長女淀君は秀吉の側室となり秀頼を産みました。次女初は京極高次の室となり忠高を産みました。そして三女小督は徳川秀忠の室となり家光を産みました。大阪の陣で豊臣秀頼は大阪城で自刃させられましたが、させたのは叔父の秀忠と義理の祖父にあたる家康でした
 そして秀頼の正妻千姫は、秀忠の娘でしたので、義理の父親に滅ぼされたともいえます。徳川家光から見れば従兄であり義弟でもある秀頼を、父と祖父が殺したといえます
 さらに複雑に話します。家康の正妻は今川一門の築山殿でしたが、のち秀吉の妹である旭姫が家康の後妻になっています。人質同然の政略結婚ではあるものの、秀頼の義理の伯父さんが家康ということになり、義理の従兄が秀忠ということになります。何かよく分かりませんね

 女系に着目すると、単なる家と家との対立ではなく、身内同士での権力争いという構図が見いだせます