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3.諱と偏諱

 (いみな)、口にするのも憚られる、畏れ多い名前という意味がありました。したがって、古代の歴史書では、天皇の名前を直接記さないとされています。ところが後世になると、高貴な人の諱から一文字を貰い、自分の諱に使うということが流行しました。これを偏諱(へんき)いいます。偏諱を受けることは、義理の親子であることを表し、ときに忠誠の証として、あるいは報償として与えられました
 室町時代以降、将軍の諱の偏諱を受けることが、地方大名の箔付けに利用され、大きな政治的効果を持ちました。とりわけ戦国時代には、困窮した将軍家が偏諱を乱発したこともありました。また、大名が将軍の偏諱を受けるのと同様に、領主クラスが大名の偏諱を受けることも一般的でした。例えば、大内氏に臣従した毛利氏は、次のような偏諱を代々受けました

[大内氏系図(抜粋)]
 弘 ━━ 義 興 ━━ 義 隆

[毛利氏系図(抜粋)]
弘 元 ━┳ 興 
     ┗ 元 就 ━━ 隆 

 通字の偏諱は、普通には貰えません。通字を与えることは一族と同様に処遇することの証であるためです。通字の偏諱を多用したのは豊臣秀吉でした。一度でも手元に置いた大名の子弟に通字の「秀」を与えたのです。例えば、木下秀秋(のち小早川秀秋)、宇喜多秀家、毛利秀元、小早川秀包、結城秀康、徳川秀忠、織田秀勝、三好秀勝らがあります。また彼は気前よく「豊臣」姓と「羽柴」姓もばらまきました。固有の一族の少なかった秀吉なりの政略手段であったと思われます