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震災日記No.10
震災日記(10:帰京、帰郷)
〜 とりあえず帰京、再び帰郷 〜

 23日午前。岸和田市営の焼き場で残骨の処理を依頼。不完全に燃え残ったものを処分する。急場の荷物を纏め、従兄夫妻に大阪まで送って貰う。随分と気遣って貰う重苦しい会話。まだ1歳と少しになる夫妻の娘が無邪気で可愛い。神戸方面からの車両が来ないので高速道路はガラガラ。30分も掛からずにJR大阪駅。18日にも感じたが、神戸の震災など何処吹く風。ショッピングを楽しむ若者で町々はあふれる。何人か不似合いに大きなリュックを担いで歩く。くたびれた服装から観て被災者の買い出しのようだ。これから神戸に引き上げるのは、さらに一苦労だろう、他人事ながら心配する。
 従兄夫妻と別れて紀伊国屋書店コインセンターへ。父親の趣味会報の遺稿を貰い受け、これまでの礼を申し述べる。馴染みのオーナーは不在らしい。ほんの3週間前に妹と歩いた街並みをぶらぶら歩く。阪神百貨店でシステム手帳のコーナーを覗く。日頃の自分に似ず、感傷に浸る。15:36新大阪を新幹線で出発。新幹線はもちろん新大阪で折り返し運転。心なしか車内が寂しい。19:00に虎ノ門の職場に到着。私服ながら部長に面会。明日改めてごあいさつに・・・と断りを入れて帰宅。六日ぶりの自宅。

 24日午前。区役所に印鑑登録をして証明書を50枚取得。これからの面倒な手続きに備える。家族写真をカラーコピーで拡大依頼。当座の着替えほかを用意して職場へ出勤。13:00同期入社のメンバーが出迎えてくれたので、事情報告。その後部長ら管理職にごあいさつ。急なことで多額の見舞金を頂戴した御礼。職場を出てラジカセを購入。妹の好きなさだまさしのカセットを用意。東京駅から新幹線で再び岸和田へ。1日ごぶさたの岸和田泊。

 25日。便数が限られるジェットフェリーに乗るべく関西空港へ。缶ジュース一箱やお米、缶詰など救援物資を運ぶ客ばかりのフェリーに乗り込む。どうも被災者は少ないようだ。15:00母親の早朝勤であったM電機の中央研修センターを訪問。事情説明と御礼。所長以下の多額の見舞金を頂戴する。遺品はほとんどない。15:40焼け跡から遺品を回収。持参のラジカセでミュージックを奏でる。16:00区役所で死亡診断書を複数発行。17:00須磨郵便局で父親がお世話になった郵便課員にごあいさつと御礼。知り合いが多すぎて大変。転居届と転送の便宜を依頼。焼け跡から回収した遺品を箱詰め発送。
 電鉄は死んでいるので、JR須磨駅まで徒歩で移動。被災者がぞろぞろ列を成して須磨駅を目指している。ここから西は被害が少ない。つまり新天地なのだ。姫路経由で飾磨へ移動し、祖母に対面。河内長野の叔父も事実をはっきり告げたらしい。遺骨を見せ、状況を話す。意外に落ち着いて昔話に花が咲く。一応健在なじいさんは一人で不貞寝。そのまま飾磨泊。

 26日。警察から不明の五人目の遺骨を引き取って欲しいと連絡。担当者は「本当は四人の遺骨の一部の筈だ」と言い張る(実は違ったのだが)。午後に飾磨を出て、14:00須磨郵便局着。預金課の知り合いに預金調査と簡易保険調査を依頼。翌日に特例的に一括処理すると確約。15:30遺骨を引き取り。16:30市営斎場で骨壺に収まらない遺骨の処理を依頼。丁寧に分類してくれて全部持ち帰るようにと言われる。満員のバスを拾って西鈴蘭台駅へ。山沿いの神戸鉄道は健在なのだ。19:30三田駅着。そして岸和田泊。

 27日。関空経由で再び神戸入り。国道2号線に余裕が出来てタクシーが使えるようになる。チップをはずんで須磨郵便局。預金と簡易保険の支払いを受ける。ただし口座に1,000万円以上入れられないというので、手形を発行して貰う。実は金利が付かないだけで1,000万円以上預けられることは後日に知る。焼け跡を経由してラジカセを回収。近所に挨拶をしてバスで神戸駅へ。中ふ頭から客船が大阪天保山へ出ていると聞き直行。ところが2,000人近い待ち客で一杯。客船はあらゆる装備を放り出してお客をすし詰め。むせ返る人いきれの中。誰もが体育座り、正座で大阪の到着を待ち続ける。タラップにも階段にも一が溢れる。難民船はこんな感じだろうかと、、、深い思いに沈む。天保山から地下鉄経由で新大阪へ。しかし列車は名古屋行きこだまの最終。名古屋から在来線で静岡に向かい、静岡駅のモスバーガーで一夜を明かす。その後始発で04:44東京着。一番大変な再帰京、その敗因はやはりフェリーか。

98.07.02
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