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震災日記No.07
震災日記(7:1月19日)
〜 遺骨発見、湧かぬ実感 〜

 朝方、周囲の声に起こされた。持参のカロリーメイトで朝食、小学校の先生にお礼を申し上げて出発。飛松中学校へ再度出向いたが、該当なし。須磨区民センターを教えられたが、B1階の体育館、1階の図書館、2階の事務所は人間で埋まっていた。3階は遺体安置所になっているという話だった。入り口に張り出された名簿には、該当なし。
 須磨区役所にも避難者が居たが、確認の手段がない。近くの須磨警察署に立ち寄り、死傷者の名簿照会を依頼した(応対した警察官は、焼け跡付近の調査を自衛隊に依頼して下さった)。再び大黒小学校へ行き、18日に確認した近所の人を見つける。実家付近は早々と崩れていたと聞く。視界が遮断されていたので分からないが、向かいの家の住人は勝手口から逃げ出せたという。少しばかりの希望を持つ。
 地下鉄化工事を行っていた板宿駅付近を通過し、商店街にある父の職場へ。この日はまだ商店街が回復していない。職場のテナントビルも亀裂が大きく壁が剥がれていた。持参の荷物が邪魔になるので、ビルの片隅に隠した。近くの板宿小学校で館内放送を依頼したが、該当なし。父の作業場を覗いたものの、応答なし。
 公衆電話を使って、主要な救急病院へ入院患者の問い合わせた。どの病院も該当者はいないという。何名かは氏名の確認できない患者もいたが。とりあえず岸和田の叔父宅へ電話したところ、叔父も神戸に向かっているという。関西空港からK−CATがポートアイランドに乗り付けているらしい、と知った。そこから先の交通機関はなく、困難が予想されたが、とりあえず伝言を頼んだ。

 実家跡へ移動した。近所の幼なじみが、ポン太の家を聞かれたので、警察に教えてくれたという。彼の家はモルタル塗りのビルであったため、1丁目内では数少ない焼け残りビルになった。二階のベランダが落ち、ダメージは大きい。
 焼け跡を、警察と自衛隊が共同で発掘してくれた。新聞販売所の人たちも、父の安否を気にして依頼してくれたらしい。この忙しい時期に10人以上の協力を得て作業が進む。4人の行方不明は大きいらしい。
 警察から、二階の住人の話を聞く。レンタルビデオ屋の兄ちゃんだった住人は、この日4人の友人を泊めていたと聞く。彼らはいきなり2階が1階になったことに驚き、取るものも取らずに、駅前まで逃げたそうである。大の男5人が周りの状況も見ずに逃げたことに苛立ちを覚える。彼らの下に人が埋まっていることは、他に誰も知らぬのにである。彼らは一時間ほどして明るくなってから現地に引き返したが、隣家の火が燃え移って手が着けられなかったという。彼らは貴重品を何も持ち出せなかったことを嘆いたというが、彼らが現地に止まれば消火の役にも立ったのではないか、と二度腹が立つ。

 やがて飼っていた鶏の遺骨が、そして一斉に五カ所から遺骨が見つかる。慎重に小石と振り分けて遺骨を集めてくれた。彼らは四人分のはずだと言い張ったが、後日に五人分であったことが判明した。骨は焼け尽くし、破片ばかりが見つかった。指の骨は存外、燃え残るようだ。警察は全ての遺骨を預かって一応の検死報告書を書くのだと言った。岸和田の叔父が焼け跡に到着。事情を説明し、警察と自衛隊に礼を述べる。薄暗くなった現地から全員が撤収した。
 ようやく、職場へ現状を知らせる。課長は私の後追い自殺を心配したという。事実、現地に友人と叔父がいなかったら、そうしたかも知れない。しかし、意味のない責任感も湧いた。叔父は中ふ頭から歩き通してきたと言ったが、再び、三ノ宮を目指して歩く。岩屋でタクシーを捕まえたが、大阪へ出るのは無理だという。三田方面へ抜ける提案を受け入れたが、3時間近くを要して宝塚駅着。阪急宝塚線、JR阪和線を経由して岸和田へ。叔父の家に宿泊。悲しいという実感はなく、遺体が出なかったので、家族が死んだという実感も湧かない。

98.06.29
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