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震災日記No.06
震災日記(6:1月18日)
〜 現地入り、焼け野原だった 〜

 午前中まで連絡待ったが、成果なし。祖母とも連絡が着く。とりあえず、電気と水道が麻痺していると聞く。近所のスーパーで懐中電灯、乾電池、ポケットTV、ホッカイロなどを買い込む。下着はよく分からないので購入しなかった。そして一路、東京駅へ。少ない貯金から10万円を引き出す。

 新幹線は京都まで回復し、JR在来線は大阪止まり。阪急電車が西宮北口まで生きているというので移動。西宮北口へは17:00頃に到着。十三で水と食料を購入した。別段物資不足の雰囲気は受けないが、買い出し組が繰り出していると聞きつける。また、塚口のダイエーは健在らしいと聞く。
 しかし西宮北口は廃墟が多く、大阪折り返しの電車は大行列。途中に見かけた自転車屋を目指したものの、到着時には閉店済み。塚口まで歩いて戻る決意をし、19:00にダイエーへ到着。自転車を購入し、水を買い足す。西宮以西は停電だが、国道二号線沿いは非常灯や車のライトで明るいので安全と聞く。道路も比較的安全らしい。
 二号線沿いに市街を通り抜け、23:40三ノ宮到着。住吉や岩屋付近で家屋倒壊が激しく迂回ルートに手間取る。職場同僚へ、三ノ宮到着を報告。01:00実家近くに到着。長田付近で消防車の大軍に出会ったが、充分な消火活動が出来ていないと聞いた。そして実家のある権現町一丁目付近が、焼け野原であるのを知った。

 近所の住人によれば、多くの人は太田中学校(TVが放映していた学校)や、大黒小学校に避難していると聞く。これらの避難者名簿には、名前が見当たらない。隣接学区の東須磨小学校や飛松中学校を当たるが、同様。飛松は名簿の整備ができていないので翌日出直してくるよう指示される。東須磨小学校に頼み込んで避難者と一緒に一泊させて貰う。隣家の家族の名前が見つかったものの、外出中だったので伝言を頼む。
 夜間にトラック一杯のウーロン茶が、救援物資として届く。3分の1を小学校で降ろすと言うので手伝った。その後に寝直し。リノリウム張りの床上にアーミー毛布を敷き、着替え用の服を掛け布団代わりに。重度の疲労が適度の眠気を誘った・・・明日は必ず探し出そう、と。

98.06.28
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