今年も例年に漏れず、靖國神社問題で一悶着がありました。終戦記念日に生まれたポン太としては、厄日のように言われるのは心外です。一番に静かであって欲しいシーズンですが、毎年まい年熱い議論が闘わせられます。最大のポイントは、靖國神社問題を、二十一世紀にまで引きずってしまったことでしょうか。小泉首相がどうだとか、公式参拝がどうだとか、そういう表面だけの議論ではない根本の議論が、少ないように感じました。
そもそも靖國神社とは、何なのか。その答えは、靖國神社のホームページにあります。戊辰戦争により多くの尊い命が失われました。明治天皇の勅命により、図らずも国家内乱となり「明治の新時代に生まれ変わる時に起こった内戦」で斃れた人達を祀るために創建されたそうです。その人数は、7,751人と記されていますが、そこには幕府側で闘った人々や、その巻き添えで無くなった人々は入っていません。あくまで薩長を中心とする、新政府側の犠牲者だけが祀られています。
古来より、実在の個人を祀った神社は多いですが、戦争の犠牲者を一括りで祀るケースは少ないようです。多くは、祈念碑や慰霊碑が戦地に築かれる訳ですが、靖國神社の場合は極めて例外的でした。しかしその後、西南戦争・日清戦争・日露戦争など多くの戦争が起きるたびに、靖國神社の合祀される慣例となって、今日に至っています。彼らは「英霊」と呼ばれ賞賛され、その延長に「国家のために死す者は、靖國神社で未来永劫に祀られる」という思想が育まれたようです。
その後、満州事変・支那事変・大東亜戦争(という呼び方が、何となく嫌なのですが・・要するに、第二次世界大戦)の犠牲者も、英霊として祀られました。その数は、244万人。それ以前の20万人から、ざっと12倍の人数です。大部分が、第二次世界大戦の犠牲者という現状にあります。犠牲者の尊い命を惜しみ、国家としての愚策を悔い、平和な日本を築き上げるために、靖國神社の存在はあるべきでしょう。
ところが、靖國神社のホームページを見る限りでは、その存在の趣旨は違うようです。「外国との戦争で日本を守るために、斃れた人達」を祀るとあり、どちらかと言えば、国家鎮護の礎と為すために祀ってあるようです。またいつか、外国との戦争が生じた場合に、その霊力により日本を守らせようという訳なのでしょう。「来るべき対外戦争」・・是非とも訪れないことを祈ります。
戦争は、ある意味で必要悪だと考えています。政治外交は最大限戦争を避けるためにありますが、それでも避けられない場合は自衛のための戦争は不可避でしょう。しかし第二次世界大戦は、日本の自衛戦争ではなく侵略戦争でした。「斃れた人達」は日本を守るためよりも、日本の国益を拡大するために闘い殉じました。これを繰り返すことだけは、避けなくてはいけません。
戦争の犠牲者を神格化することは、戦争を神格化することでもあります。その象徴が、靖國神社であるのでしょう。何故に、歴代の首相や大臣は、公式参拝に拘るのでしょうか? 彼らが戦争の愚かさを悔い、多くの犠牲者を生んだことを詫びに行っているとは思えません。復仇のために、再び対外戦争を仕掛けることを、誓いに行っているような気がしています。
合わせて議論になりますが、第二次世界大戦後に戦犯として裁かれた人々も、合祀されています。彼らは戦争推進の当事者であり、確信的な加害者でもあります。果たして犠牲者なのでしょうか? 第二次世界大戦は、陸軍を中心として積極的に推進された戦争です。その推進者たちは、国民を誤った方向に誘導し、無謀な戦争に尊い命を惜しみなく注がせることに叡智を費やしました。結果的に、日本の存立を危うくし、国家の基盤に大きなヒビを入れました。そのヒビは、現在も修復されていません。
靖國神社の存在意義を見直し、純粋に国家政策の犠牲になった人々を祀るべきでしょう。そして参拝する政治家は、日々戦争のない国の将来を願い、再び国民の尊い命を犠牲にしないことを誓うべきではないでしょうか? 国民宰相と人気の小泉氏ですが、「国民の犠牲の上に国家は成り立つ。国家存立のため国民の犠牲はやむを得ない」などという考えは持たないで欲しいものです。何はともかく、意地でも公式参拝に出かけるという姿勢は、宜しく無いでしょう。首相官邸から距離的に近いのですから、毎日でも参拝して、国民の最大幸福を願って頂きたい。
01.08.26
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