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政治の研究No.138
官僚相手に奮闘する大臣

 田中外務大臣の個人バッシングが続いています。小泉首相実現の功労者であり、自ら望んで就任したと言われる外務大臣ポスト。就任早々から、人事問題に手を突っ込んで暴れ放題です。サミットに絡むタクシー代金の水増し問題、在外領事館での経費流用問題、責任を取るべき幹部の人事凍結、派手なスキャンダルが相次ぎましたが、田中外務大臣には逆風が吹いています。「改革の人」であるはずが、トラブルメーカーとして叩かれています。

 機密費流用事件に端を発した、外務省のスキャンダルは続いています。これほど膿を持ちながら、体質改善を拒む外務官僚。機密であるはずの外交情報をリークしたり、大臣のプライベート問題を誇大に広めたり、持ちうるチャンネルを総動員して、大臣バッシングをしています。官僚に踊らされて、ある事ない事を垂れ流す大手メディアは、お馬鹿です。
 外務官僚の全てがダーティではないですが、幹部の多くはダーティのようです。ダーティな行為を共同で行い、その秘密を共有できる者だけが幹部に成れるのでしょう。公費で先輩の壮行会を開いたり、機密費の一部をネコババし裏金にしたり、さらに裏金をポケットに入れたり・・一連の報道を結んでいけば、低次元な外務官僚の常識が顕わになります。しかし、その事実を認めることは、自分たちの存在意義を失いかねません。必死のバッシングなのでしょう。

 外務大臣のバッシングは、やりすぎと、身内びいきと、朝令暮改でしょうか。庶民派を気取ってみても、田中大臣は金持ちのお嬢様です。本当の意味で庶民を知らず、世間常識がズレています。頭は良いですが制御が利かず、思いこみが激しく感情が優先するようです。しかし、基本的にベクトルは正義と改革にあり、結果的に庶民の為に成ろうと頑張っています。ご本人の性格もあるでしょうが、良いブレーンが不足しているのだと思います。
 そもそも大臣と官僚の立場は、何でしょうか? 大臣は使用者であって、官僚は使用人のはずです。ともに公僕でありますが、使う者と使われる者の立場は明確なはずです。しかし長い間、大臣はお飾りであり、御輿でした。官僚は上辺だけ繕ってみせ、大臣を侮り欺き操ってきたのが本当でしょう。大臣は多くを学ばず、任期がくれば放出されるだけです。ある者は取り込まれて族議員となり、ある者は排斥されて捨てられました。
 「敬して遠ざける」が、官僚の大臣への態度では無かったでしょうか? いささか低次元とはいえ、官僚相手に奮闘する大臣を見るのは久しぶりだと感じます。人事権を持つ大臣に抵抗する官僚、大臣のコメントを訂正や否定する官僚、意気揚々と乗り込む新大臣を何人カタに填めてきたことでしょうか。米国で政権が交代すると、官僚の幹部の首がドラスティックにすげ替えられます。それが政策の不連続を招くと言われてきましたが、大臣によるトップダウンには適しています。日本には、それがありません。

 田中外務大臣の活躍は、自民党の守旧派と呼ばれる面々から冷笑されています。永田町の常識、霞が関の常識に反する言動が、愚かな行為と見えるのでしょう。守旧派を抑えて改革を推進したい小泉首相も、行き過ぎを苦々しく思っているようです。破局だ罷免だとマスメディアは騒ぎますが、少なからず距離を生じているようです。劇薬は用いる時期と分量が決まっています。田中外務大臣という選択は、時期も分量も間違ったかも知れません。
 しかし、そろそろ永田町も霞が関も変わるべきです。政治家や官僚の常識が変わらない限り、構造改革も財政再建も経済浮揚も実現できません。一方で債務圧縮に取り組み、他方で潤沢な財政出動などできません。激しい出血を覚悟すべきこの時期に、旧態然とした権力争いをしている場合では無いのです。田中外務大臣の奮闘は、それを国民に訴えたいのでしょうが、どうも個人のキャラクターに矮小化されて伝わっているようです。

 今成すべきことは、大臣と官僚の地位を明確にすることです。全ての大臣が田中外務大臣に倣うなら、山が動くことでしょう。全ての大臣が本気になれば、残る政治家も本気になります。せっかく副大臣まで導入したのですから、政治家によるシビリアン・コントロールの神髄を見せて欲しいモノです。

01.08.05
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