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政治の研究No.36
市民派 と 民衆派

 小選挙区制が導入されてから市民派を標榜される政治家さんが増えました。市民の味方を主張すれば当選しやすいと言うのは、どうも日本独特のスタイルであるようです。外国ではどんな公約で以て市民派たることを明示しなくてはいけませんし、その公約を果たせなければ次の選挙では間違いなく落選するために必死で活動をしています。しかし日本では市民派を宣言すれば、あとは候補者名の連呼だけで当選してしまうのが奇々怪々で、その後市民のためにどんな努力をしたかも問われないのです。そこで今回は市民派の正体を分析してみましょう。

 まずは市民の定義をしてみます。市民とは文字通り「シティ(市)に住むピープル(民)」のことで、狭義には行政区分の市に住む人々で、広義には都民も県民も町民も村民も包括した国民を指します。一般的に政治家さんが主張する市民派とは、この国民を指しているようで、より厳密に言えば彼に投票をしてくれる有権者に限定されると見るべきでしょう。専ら市民のために利益誘導を行い、得票に繋がると見れば、(偽善を含みますが)弱者救済を打ち出して医療費の増大、社会福祉費の増大、などバラマキ主体の政治力を発揮されます。これが一概に悪いことだとは言いませんが、国政を省みることなく、地元問題のみに邁進するのはどうかと思います。
 これに対して市民運動をされている活動家の皆さんは、同じ市民を標榜されますが、少し毛並みの違った方がいます。あるいは現在の野党議員に同様の主張をされる方も見え始めています。医療費や社会福祉を削減し財政均衡、赤字削減に取り組むべきだと主張される方々で、必要とあれば弱者切り捨てもやむを得ないと主張される方々です。なぜ正反対の主張をする人たちも市民派なのか・・・と言いますと、英語の「ブルジョワ」の対訳として「市民」が充てられている、という特殊事情があるからです。ブルジョワたちは歴史が証明するように政治に無関心な大衆とは一線を画した存在で、明確な自我を持ち積極的に政治に介入してきました。ギリシアのポリス市民、ローマ市民、革命を主導したフランス市民、国王を処刑・追放したイギリス市民、独立を勝ち取ったアメリカ市民、彼等が一般大衆とは異なる存在であったことは間違いありません。

 おそらくはブルジョワこそが本当の市民の名に相応しいでしょう。我が国では1億総中流などと言われていますが、政治への関心の深さに着目すれば、やはり市民と大衆にわけて見るべきでしょう。市民が自分達の利益だけを主張し、自己の地位向上を図ろうとする小乗仏教的な思想が市民派的思想だと考えます。これに対して、大衆も含めた全体的な救済を図ろうとする大乗仏教的な思想が民衆派的思想だと考えます。ですから、市民派を標榜される政治家さんの多くは民衆派を称するべきではないかと思います。

 ところが不況が本格化し、政府さえも頼りに出来なくなった今、民衆派的思想がどこまで生き残れるか微妙なところへ来ています。消費税の引き上げ、年金制度の改悪、医療費の抑制、公共事業の縮小、不良企業の整理・・・などなど全体の救済がお題目に代わろうとしています。これが一時的な現象で済むかどうかは明確でありませんが、その鍵は不況から早く脱出することができるかどうか、あるいは日本経済の信用を早期に回復できるかどうかにあります。市民派を標榜する方も民衆派を標榜する方も、今はイデオロギー的対立をしている場合ではありませんよ。まず目先の最大の危機をうち払い、弱者救済にも充分な資金が回せる状態まで回復できるよう、まずは手を携えて、優先的に解決すべき政治課題に取り組んで欲しいと思います。

98.09.16

補足1
 真の民衆派政治家は数少ないと思います。自ら大衆の側に身を置き、その後立身出世をして功成り名を遂げる・・・そういう人物は政治家にも多いはずですが、一旦大衆から抜け出ると大衆の気持ちを忘れる政治家が多いように思います。我が国の場合では、息子を二世議員に仕立て上げたりするうちに彼らもブルジョアの仲間入りをしてしまうからでしょうね。そのため、民衆派政治家を気取って、大衆のための政策をブチ上げてみても時代錯誤的であったり、インチキであったり、大雑把なバラマキあったりするのでしょうか。

補足2
 対する市民派政治家も良質な人は少ないですね。過激な発言が格好良い、と思っているものか、必要以上に弱者切り捨てを主張する政治家もあります(例えばロシアに居ますよね)が、一定の人気をかち得ても結局は多数の支持を集められませんからね。ただ不況時には受け入れられやすい考え方であるのは間違いなく、国家主義や全体主義もここから復活する土壌を成しています。やはり求められるのはバランスでしょうか。

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