ほんの一昔前まで日本民族とは恥を知る民族だといい、恥を忍んで罪を償うよりも、潔く身を引くことが美徳とされていました。経営赤字を出した会社、会社不祥事を引き起こした会社のトップが「引責」を口にしながら辞任することが、美徳であり、世論支持を受ける行為でありました。辞任を褒めこそすれ、貶すことは無かったと言って良く、その見返りに退職金を受けることも何の批判もありませんでした。
バブル後の引責辞任は、経営責任問題がもっとも多く、会社に大きな損失を与えたことが問題視され始めています。その損失額も数十億円単位に及び、引責辞任する役員の退職金問題がクローズアップされるようになりました。彼らが会社に与えた損失の一部を彼らの退職金で贖うべきだということですが、これは少しおかしな主張です。まず、退職金を以て損失の補填に充填するためには、一旦は退職金を支給した上で、彼らに自主的に返納させるか、民事的に賠償金を請求するか、という手続を踏むべきです。少なくとも退職金は、彼らが長年に亘って企業に尽くしてきた代償として支払われるものですから、これを企業側の理屈で支給しないというのは制度上おかしいです。もし彼らが会社に著しい損失を与えたので退職金を支払いたくなければ、自主退職(引責辞任)を認めず懲戒免職とすることです。もしくは、背任罪で訴えを提起しつつ退職金の支払いを留保するという手を使うべきです。
退職金の問題は、公務員の不祥事問題でもクローズアップされています。多額の接待を受けて企業に便宜を図り、不正蓄財に及んだ某省の高級官僚が依願退職を受理されて退職金を受けるという問題がありました。結局は当人からの辞退という形で支給は見送られましたが、辞退がなければ支払うつもりだった某省の考えは理解できない。そもそも事件の実態が分からないうちに、当事者の退職願を受理することに問題がありました。懲戒免職の影響を恐れた上層部が、クサイものにはフタ、トカゲの尻尾切りと言われる行為に及んだのは残念なことでした。疑惑は某省自ら徹底究明して欲しかったです。
経営責任を投げ出し、混乱する社内情勢を後目にして退職金を受け取る行為は許されるのかという疑問があります。マスコミの突き上げの厳しさから逃れるために即刻の辞任会見を開くトップが多いようですが、少なくとも辞任するのは社内の混乱が収まってからにするべきではないかと思います。本来はイメージダウン回復のためのシナリオを優先して発表すべきであって、トップの進退問題というプライベートな問題は二の次でよいはずなのです。
また引責辞任したはずのトップが、企業の顧問や相談役に退いて院政を敷くことも珍しくありません。M證券のオーナー会長など例を引くまでもありませんが、中途半端な責任の取り方が許されるのは、トップが辞任を宣言した時点でマスコミが興味を失うことに理由があります。結局時間が経てば、返り咲きが平然と行われたりもします。企業の体質は変わらず、むしろ陰にこもって問題を再発します。「水に落ちた犬は必ず叩く」ということは必要です。引責辞任を口にするトップに対しては退職金を握らせて放り出すか、背任罪で訴えて叩き出すかして、完全に縁切りするけじめが必要であります。
近頃は引責自殺も多くなりました。マスコミに追いつめられて首をくくる場合もあれば、ノイローゼで突発的に及ぶこともあり、謀略気味に全ての責任を被せられて・・・ということもあります。引責自殺からは何も解決しません。マスコミは一転して同情を寄せて、自らを取り繕う記事を掲載したりしますが、本来は自殺の代償として追求の手を緩めるのではなく、事実究明こそがマスコミの指命では無いのでしょうか。
そもそも儒教が蔓延るまでは、引責自殺という概念は無かったと思います。忠誠心の存在が怪しかった時代においては、責任回避のための逃亡が一般的でありました。江戸時代に入ってから、当事者の切腹を以て事件の一切を不問にすることが流行したのです。そして明治時代以降、軍人の精神論が昇華する過程で、自決こそが美徳とされるようになりました。しかし太平洋戦争で一番に不足したのは物資よりも人材でした。そして活きた情報でした。局地戦の敗戦によって、責任者の自決が相次いだことが、実戦経験豊富な指揮官の不足を招き、敗因の分析が遅れることとなりました。その結果、筒抜けであった日本軍の暗号、前線では常識でった圧倒的な物量差、愚かで非効率な兵力の分散配置などが上層部には伝わりませんでした。
話がまとまらないところで結論です。辞任でも自殺でも、引責では何も解決しません。責任の取り方として、「新たな功績を以て罪を償わせる」ことを前提とするべきです。新たな功績を立てられない者は即刻放り出し、それでも罪を贖えない者には、はっきりとした罪を問います。無事に罪を贖った者には見返りとして名誉と退職金を支払うことです。そのためには、単眼近視眼に成りがちなマスコミが複眼遠視眼に成ってもらうこと、同様に世論も気長に粘り強く見守る度量を持つことが求められるのではないでしょうか。
98.03.12
|