先日、久しぶりに「平べったい」芝居を観ました。以前は結構あったフレーズですが、読者の評判が良くないので、あまり使わなくなりました。要するに、奥行きやメリハリがなく、ノッペリした芝居のことです(余計に、分かりませんか?)。
本来は、あり得ない
もう少し言い換えるチャンスをください。例えば、幼稚園児のお遊戯などは、どうでしょう。先生が手取り足取り教えて、無難に観せる演技です。園児達は、自分たちで考えるのが難しいので、先生の指示通りに動きます。憶えたことをそのまま再現するのは得意な世代なので、大人を使うよりも、上手いことがありますね。
先生には、当然ながら芝居センスが無いので、園児達に淡々と消化させるだけです。誰かが目立つのを避け、可能な限り、群れとしての出来映えを気にします。じつに無難に、そして大過なく。感動を呼び起こさせる必要はなく、園児達が演技を経験することに意味があるのですから。しかし、中高校の演劇指導の先生にも・・似た傾向があるので、困りますね。
大人になれば、そんな「バカな芝居」は無いでしょう。誰もが主体的に考え行動するのですから、そこで個性を抹殺し、平べったくなる可能性は低いはず。お客様もご父兄ばかりでなく、客を楽しませるために芝居をするのですから。にも関わらず、そんな芝居に遭遇します。多くは、演出家や脚本家が、「無難に大過なく」を信奉している場合です。
それがカラー?
表情は、一律に無表情、あるいは難しい顔。台詞は、淡々と棒読み、そして順序どおりの「発言」。仕草は、目立たず慎重に、動きは小さく単調。歌唱は、声楽調で口を大きく明瞭に、また和を乱さず控えめに。ダンスは、フォームを美しく、穏やかに。お利口さんの優等生的な芝居があります。それを総じて、「平べったい」と呼んでいます。
芝居には、流れがあり、雰囲気があり、勢いがあります。非日常的な芝居であっても、台詞に抑揚を持たせ、感情を籠めます。歌や踊りは、そのイメージを膨らませながら、素直にストレートに伝えるでしょう。表情は、日常以上にオーバーなぐらいで、かつ明瞭に表す。キャラクターを明確にし、それぞれが自分の判断で個性の肉付けするでしょう。何度も稽古を積み、互いにチェックしあって、指導力のある演出家たちの指示を仰ぐ・・。自然に「平べったくない」芝居ができるはずですが。
「平べったい」芝居をする劇団は、そのパターンを重ねることが多いです。それが、劇団のカラーなのでしょうか。一途に信じている気がします。ゲネプロでチェックしたり、ビデオでチェックしたり、そこで違和感を感じないでしょうか? 他劇団の作品を観て、変だと感じないでしょうか? それでも客が入るのには驚くのですが、お客様の正直な意見は・・? 不可思議です。
冒頭の芝居ですが、台詞ごとに重い沈黙を挟み、伏し目がちで緩慢な動作でした。ストレートプレイだったので、歌と踊りはナシですが、それだけに重たいです。作品中に無関係な宣伝が流れたり、ステージ挨拶をしてからも別の芝居を続けたり・・休憩無し150分の拷問でした。
出演した知人には、「申し訳ないが、二度と誘わないでくれ」と哀願してしまいました。平べったいのは疲れます。
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