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日本史の研究No.20
承久の変、その後

 前回北條義時は、小策士だと書きました。しかし、彼を大策士と見る向きもあるようです。最終的に姉政子の出馬を求めたとしても、結果として承久の変後の鎌倉政権は固まったためです。前々回では義時が相次いで政敵や源氏一門を葬ったと書きました。相手を挑発してから、大義名分を作って叩くのは、彼の常套手段です。とすれば、彼の無策のためでなく、彼の演出によって承久の変は発生したのかも知れません。

 承久の変の火種は、かなり早いウチからありました。直接の原因は、後鳥羽上皇が重用した女性に下賜された荘園で、御家人である地頭が無礼を働いたという事件だと言われています。上皇は義時に改善を申し入れましたが、義時は頼朝の名を持ち出して拒否したそうです。それも文書ではなく、弟の時房に大軍を率いて上京させた上での口上でした。上皇は従来の「北面の武士」に加えて「西面の武士」を増強し、近在の僧兵にも荷担を求めるなど、軍備に励みました。
 また源氏三代を継ぐ将軍として、皇族の跡継ぎを求めましたが、上皇は認めませんでした。義時は意趣返しとして、藤原摂関家から幼児を跡継ぎに迎えて、決定的な対立を引き起こしました。
 やがて上皇は、畿内の有力武士に協力を求め、北條氏に次ぐ大族である三浦義村にも同心を求めたそうです。結論から見れば敵方の有力武将に協力を求めるのは愚かですが、当時まだ朝廷の権威が残っていた事実から見れば、そうバカな行動でもありません。その後義時追討の院宣を発して、承久の変は開幕します・・・。結局のところ、政子の演説御家人の結集大軍の上京上皇方の敗北となります。

 上皇は行動の人ではありませんでした。後世の後醍醐天皇を除けば、皇室にはこういう方が多いです。育てられる環境が環境なので、誰しも勅命や院宣に逆らわないものと決めてかかっています。加えて、自ら陣頭に立つこともしません。陣頭に立てば、弓を引く相手は確実の朝敵です。誰しも朝敵の汚名だけは怖れます。。。上皇はついに陣頭に立たず、最後は側近も同心武将も見捨てて降伏しました。
 ここで義時は強硬な姿勢に出ました。過去において、清盛でさえ上皇や天皇は幽閉に留めました。高倉天皇に譲位を迫ったときも、あくまで表向きは穏便でした。臣下によって殺された天皇はあっても、流罪にされた上皇・天皇はありませんでした。しかし義時は、仲恭天皇を退位させ、後鳥羽・順徳・土御門の三上皇を流罪(ただし土御門上皇は自ら望んだとも)にしました。加えて六條宮と冷泉宮も流罪に、近臣たちも流罪または断罪とする厳しい処分でした。
 加えて皇室と上皇方武家・公卿の所領3,000カ所を没収して、新たに功績のあった御家人に分配しました。これにより西国に新領地を得た関東武士が増え、広く全国に関東武士が根を張ることに成りました。加えて京の六波羅に北條一族の守護を置き、朝廷の監視と西国の監督に従事することになりました。当時は六波羅探題と呼ばず、単に六波羅殿と呼ばれました(のちに南殿・北殿と呼ばれる2名を選出するスタイルに成りました)。
 結果として、諸国の荘園における地頭の地位が高まり、領家(在来の荘園領主)の地位は縮小しました。もともと荘園は領家の所有であって、地頭は単なる徴税吏であり治安責任者でありました。それが「地頭請け」と言って納税義務の代償に荘園内の一定領地を保有することが認められ、さらには「中分」と言って領家と荘園を分け合うまでに成りました。さらに領家の管理人を追い出して全部横領する地頭も出てきます。

 承久の変は1221年。幕府の基礎を固め終えた1224年に、義時は死去します。実権は再び北條政子に帰しますが、執権は義時の子泰時が就任し、執権の世襲制が始まります。北條家の支配は確定し、鎌倉政権は当面の安定期を迎えることになりました。

99.12.30

補足1
 冒頭で断りませんでしたが、私は、義時の小策士説を採っています。当時は女子の相続権も認められるなど、決して男子優位の社会ではなかったのです。義時の功績が大きく捕らえられているのは、後世の男性上位の考えが支配的になった結果ではないかと思っています。義時が様々な策を操ったとしても、それは政子の後ろ盾を利用してのことだと思われるからです。
 ただし、義時が執権制度を始めたことには注目が必要で、名実ともに北條氏の天下を知らしめた上で、これが義時の純粋な発想であれば、彼も非凡な政治家であります。

99.12.30

補足2
 頼朝によって創設された守護は、国単位で鎌倉政権の代理人を務める存在で、朝廷に任命される国司と対抗する地位にありました。同じく地頭は、本来は影響力を及ぼせない荘園内において治安と徴税を請け負う者として派遣された代理人で、領家と対抗する地位にありました。
 とくに地頭の権益拡大は著しいものでしたが、これは領家(つまり寺社や貴族)の勢力を弱めるために、鎌倉政権が嗾けたもののようです。地頭も代替わりが進み、少しずつ鎌倉政権の制御を受け付けなくなります。そこで地頭請けを導入して、既得権の承認と引き替えに、納税義務を明確にしたようです。
 また中分は、領家と地頭の話し合いで所有分を決める和与中分と、鎌倉政権の裁定によって決めた下地中分とがありました。領家は地頭と競り合った結果、半分近い領地をタダ取りされますが、さらに領主不在の領家では丸々横領されるようにも成ったようです。
 やがて地頭が地方領主としてのし上がり・・・有力御家人へ成長していきます。

99.12.30
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