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日本史の研究No.19
日本一 の 女将軍

 中世の三大女傑と言えば、概ね「北條政子日野富子春日局」の名前が挙がるそうです。なかでも、他の二人よりもスケールが違う北條政子の人気は、高いところですね。北條政子は、伊豆の豪族北條時政の長女として生まれ、才媛として名高かったということです。その当時流人であり、平氏から睨まれる存在であった頼朝から見れば、とても手の出せない相手であったはずです。
 頼朝は始めから天下を望んではいなかったでしょう。いずれ平氏の勘気が緩み、東国の一豪族の地位に復する程度のことを望んでいたはずです。もちろん随臣はわずかですから、いずこかの名家に入り婿同然で養われることを望んでいたと思われます。頼朝は、彼なりに貴種としての商品価値を知っていましたから。
 その頼朝が最初の相手に選んだのは、一番の名門・伊東氏であったことは書きました。当主祐親が不在の間に、娘と通じて千鶴を成しましたが、祐親の勘気に触れて千鶴を殺され、夫婦の契りも引き裂かれました。祐親は平氏に睨まれることを病的に怖れたのだと言い、千鶴を殺させたことは深く後悔を抱いていた、と伝えられています。
 やむなく頼朝は、二番に名門の北條氏に接近しました。いろいろ確執があったものの、勝ち気な政子の方が惚れ込んだようです。時政は先の見える男で、桓武平氏の一翼を担う身でありながら、この夫婦を黙認しました。祐親と同様に京に上っていた時政は、平氏の限界を感じていたのかも知れません。しかし時政は、政子と伊豆目代(代官)の平兼隆との縁談を決めてしまっており、その対応に苦慮しました。結果として政子を嫁入りさせたものの、政子は即日に脱走してしまい、頼朝としては兼隆を討ち取らざるを得ない状況に成っていました(偶発事件というよりも、兼隆を油断させる謀略と観るのが相当でしょうか)。

 頼朝挙兵には、いろいろな要素が絡んでいるようです。兼隆とは嫁取りに絡んで決着をつける必要がありました。叔父の行家が以仁王の檄文を届けてきたということもありましたし、文覚上人が義朝と称する髑髏を抱いて嗾けたということもありました。また以仁王が挙兵して源頼政と共に敗死し、源氏に対する平氏の監視が厳しくなった事情もありました。遠からず挙兵せざるを得ない以上、兼隆を血祭りに上げて勝負に出ようと考えたのは間違いありません。
 この時点でも、朝廷によって「朝敵の汚名」を晴らしてもらえれば関東に盤踞する豪族の地位で良い、という程度の覚悟だったかと思います。彼の下を訪れる関東武士たちの多さに少し自信が得られたはずですが、父義朝の騙し討ち事件で元家人への不信感は払拭できていなかったようです。奇襲策を用いて兼隆を討ち取った頼朝でしたが、その後が続きませんでした。近場では北條一族のほか、遠山氏・土肥氏の協力しか得られず、大族・伊東氏や元家人・大庭氏が敵に回ってしまったことが計算を狂わせました。東相模の増援を待つまでもなく、頼朝は石橋山で敗れ去りました。
 頼朝に幸いしたのは、危機を逃れて安房国へ渡れたことです。わずかな供と小舟で渡った彼は、平氏の色に染まっていない房総の関東武士たちに、期待を持って迎えられました。安房・安西景益、上総・平広常、下総・千葉常胤、武蔵・江戸重長、相模・三浦義澄、同・和田義盛・・・と大豪族を迎え入れて、40日ほどで3万人の大軍を組織しました。その中核となったのは、過半を占める平広常の軍勢です。日和見するウチに遅参した広常に、頼朝は一喝を加えたというエピソードがあります(のち天下が定まってから、広常は上意打ちにあっています)。
 源氏の大軍は駿河の富士川まで進軍し、関東はほぼ源氏一色と変わりました。木曽義仲の挙兵も伝わり、足利源氏・甲斐源氏・宇多源氏なども陸続と駆けつけてくるように成りました。富士川へ向かった平氏の追討軍は、平維盛を大将とする10万人の軍勢でしたが、水鳥の羽音を敵襲と勘違いして遁走したと伝わっています(維盛は、翌年義仲相手にも10万人の大軍で敗れています。有名な「倶利伽羅峠の戦い」)。現実には、疫病や飢饉の発生で、平氏軍は著しく士気が落ちていたらしいことや、義仲を含む各地での源氏挙兵が影響したようです。頼朝にとっては幸運だったのです。

 ここまでは、頼朝の幸運と実力です。関東武士は「源氏の旗印」を得て、平氏支配に抵抗を見せました。頼朝は源氏の血筋の実力を過信したようですが、関東武士の多くは、とりあえず公家化した平氏に一矢報いたつもりしかありません。源氏が堕落すれば、いつでも主君を変えるような、バラバラの集団だったのです。頼朝は鎌倉に本拠を構えると、義仲・平氏討伐は弟たちに任せて、支配体制の確立を急ぎました。
 とはいえ、頼朝は豪族達の考えをよく知っていません。彼の構想の中では、豪族達は当然に源氏の号令に従うものとの判断しか無かったのですから、豪族間の利害を調整する人間が必要です。とりあえずは時政の重要性が高まるわけですが、彼の功労は石橋山の敗戦で減殺されていました。家格では広常や重長、義澄に及びません。せいぜい同格でしょうか。調整役は、頼朝の妻の資格を持った政子であったことでしょう。
 政子は豪族の家に生まれたために、豪族の背景がよく理解できています。また聡明で知的で、男勝りの覇気と戦略眼があったようです。交渉のツボを抑え、ときには頼朝や時政を動かして、上手な裁量を行ったと見えます。表立っては姿が見えませんが、これなしに後述の名演説は成り立たないからです。

 頼朝は政権が安定すると、政子以外の女性に子供を産ませたようです。その都度、政子は怒り狂ったようですが、頼朝としても尻に敷かれるばかりでは疲れたのでしょう。2男2女を授かって、2男は仏門へ入れられています。1199年、基礎が十分固まらない将軍7年目にして、頼朝は亡くなりました。二代将軍頼家が嗣ぎましたが、即座に政子が実権を取り上げたことは、前回に書いたとおりです。
 政子が政権を取り上げたことを、形式と見るか、実質と見るかが重要です。形式であったとすると執行者は時政ということですが、前述のように、当時の彼は同格の豪族でしかなく、政権をリードする実力はなかったでしょう。義時は、のちに策謀家として活躍しますが、小才子タイプで、当主でもない彼が表だって実権を揮えるとは思えません。やはり実質的に、政子が政権を握っていたとみるべきです。
 その後比企氏を巻き込んだ頼家のクーデター未遂で、政子は頼家を見捨てました。三代将軍実朝にも実権を与えなかったことも書きました。その実朝が義時の謀略で殺され(という推測です)、政子は悩んだはずです。頼家の子供を跡継ぎに据えて源氏の血統を守るかどうかを。この時点で、主要な豪族を切り崩して北條家を切り回し始めた義時に、政子のコントロールが行き届かなくなっている様子が伺えます。それなりに能吏であり、自らの謀才に酔った義時が、打算を巡らせて北條家の天下を狙っていることは、止め難かったかと推察されます。

 そこへ、承久の変が発生しました。日本史上最初の武家政権の存亡を賭ける一瞬が到来したのです。有力な御家人を欠き、源氏という旗印もない状況で、「朝敵」の立場に追い込まれたのですから、日の浅い御家人達の動揺は著しいものでした。後鳥羽上皇の側近に絡んだ些細なトラブルと甘く見て、すっかり政権を切り回しているつもりだった義時は、事態を収拾できず右往左往していたと伝わっています。
 鎌倉周辺の御家人達は、迎えたばかりの四代将軍頼経の邸宅へ押し掛けました。そこへ政子が激励に登場し、有名な演説をブチ上げました。朝廷の非道を思い起こさせ、頼朝の御恩を切々と説いて、御恩に報いるべく鎌倉を死守すべきと宣言したのです。政子の演説に共感した御家人達は、ただちに兵を率いて京に上りました。予想を上回る時間と兵力とで押し寄せた鎌倉軍に、楽観を続けていた後鳥羽上皇軍は潰え去りました。朝敵の言葉を怖れて降伏してくると信じた、上皇の甘さが際立ちます。
 政子の演説によって形勢が大逆転したことを見れば、多くの御家人達に政子の政治手腕が認められていたと結論づけられるでしょう。単なる象徴では、事を巧く運べません。同時に義時の小才子ぶりも明かであり、政子の黒幕とは成り得ないことが分かります。頼朝挙兵から承久の変に至るまで、政子はずっと希有な政治感覚を持って奔走していたと思われます。愛する頼朝の理想を達成するために、自らが賭けた武家政権を守り抜くために。当時は、頼経の後見に就任したことで尼将軍と呼んだそうですが、本当は鎌倉政権の当初からずっと、女将軍として活躍していたと観るべきですね。

 その意味では、富子や春日局など寄せ付けない、日本史上でも希有な女傑であったと言うべきでしょうか。

99.11.14

補足1
 富士川の合戦直後、頼朝は自ら兵を率いて上洛するつもりだったと伝わっています。しかし背後に甲斐源氏の分流・佐竹氏が敵対しており、さらに奥州藤原氏の動向が気に掛かったために、鎌倉への凱旋を決意したそうです。
 この判断は、結果として正解でした。平氏の粘りは予想以上のもので、都落ちした後も摂津・讃岐などで勢力を盛り返し、最後の決戦となった壇ノ浦でさえ、九州勢は平氏を見捨てていませんでした。頼朝が上洛していた場合、伸びすぎる補給線と、ゲリラ的抵抗とに合って、無事に源氏の政権が確立されたかどうか疑問です。また上洛した場合、後白河上皇の謀略にどこまで対抗できたかも、疑問の残るところです。
 平氏は、家長である清盛を謎の熱病で失っています。清盛が存命で有れば、いくらでも巻き返しが可能だったでしょうが、彼の死を以て藤原貴族の反抗をも許すこととなり、唯一の拠り所となった安徳天皇を抱え込むことで、耐えました。福原京遷都も、思ったような効果を上げることができず、平氏の凋落は加速していきました。

99.11.16

補足2
 平氏に関する最大の謎は、桓武平氏の動向です。清盛は桓武平氏の出身という系図に成っていますが、本当のところは謎です。少なくとも伊勢平氏の出身ではありますが、伊勢平氏と桓武平氏の接点が明かでないのです。
 桓武平氏は高棟王と高見王の系統があり、前者は京にあって貴族に、後者は関東に下って土着しました。伊勢平氏は将門を誅滅した貞盛の末子維衡を祖としていますが、いかにも付け足しのような系譜です。事実で有れば、いかに伊勢に派生したとはいえ、坂東武士にも多かった桓武平氏が靡いてこなかった理由が分かりません。
 清盛が近親のみ優遇したという見方もできますが、彼の政治感覚からすると随分に手抜かりがあったように思われるのです。桓武平氏の一派であったとしても相当の亜流であったか、伊勢へ流れなくてはいけない歴史があったか、そもそも別系統の平氏であったのか、何らかの理由がなくては、説明が付かないのです。清盛の皇胤説なども一部では信じられていたようですし・・・どうなのでしょうか。

99.11.16
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