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日本史の研究No.18
頼朝の誤算、義時の打算

 鎌倉殿として武家の頂点を極めた頼朝は、異常なまでの子煩悩であったそうです。長子・千鶴をその外祖父伊東祐親が滝に投げ込んで殺してしまったという過去も一因だったと思われます。一方で弟たちには冷淡で、実子に跡を嗣がせるためにも抹殺しようと考えていたようです。
 まず京へ先に討ち入った従弟・義仲には、相互の領分を侵さないと言う約束で長子義隆を受入れ長女大姫の許嫁としていました。しかし上皇から義仲討伐の宣下を受けると、約束を反故にして範頼らによって義仲を討たせ、さらに義隆を殺しています(木曽氏は義隆の末裔と称していて矛盾するので定かでない。長子は義隆ではなく、義基であったとも伝えられています)。
 平氏滅亡の1185年、功績のあった義経の非を問うて追放し、義経と分派した行家(唯一生き残った叔父)を惨殺しました。1189年には奥州藤原氏を圧迫して義経を殺させ、それを口実に奥州を攻め滅ぼしました。1193年に富士裾野の巻狩りの際、範頼に不遜な行動があったとして北條氏に討たせました。有力な一族の甲斐源氏は武田・安田・佐竹の一族を暗殺・追放して駆逐し、頼政死後没落した摂津源氏は捨て置き、血筋上は本流の足利源氏は地方に放置しました。
 しかし頼朝の願いも空しく、頼朝死後は頼家、実朝のわずか三代で滅亡してしまいました。外戚として頼みにした北條氏が、自らの権勢を拡大するために源氏を根絶やしにしたためです。頼朝は源氏あってこその武家社会であり、武家社会ある限り源氏の血統は守られると考えていたようです。守られるために唯一自分の血統だけ残したつもりが裏目に出て、簡単に滅ぼされる原因を作りました。明らかに頼朝の誤算だといえましょう。

 さて頼朝の死後2代将軍に就いた頼家は、就任した1199年に早々と実権を取り上げられました。将軍として相応しくない頼家に政務は任されない、と政子が判断したためだと言われています。成人した頼家にとって面白いはずがなく、彼は有力御家人の一人であり舅である比企能員と語らってクーデターを画策しました。しかし1203年、北條氏に先手を打たれた比企一族は滅亡し、頼家は幽閉され翌1204年に暗殺されています。
#Nに跡を嗣いだのは弟実朝で、3代将軍と成った彼にも実権は渡されませんでした。実朝は文化に興味の対象を移して名を成しましたが、その結果として文弱の烙印を捺されました。現実には北條氏の陰謀に過ぎません。その北條氏に世代交代がありました。頼朝の事実上の同盟者で最大の功労者である北條時政は老いて権力に迷い、娘婿の平賀朝雅を将軍に着けようと画策しました。このクーデターは実子義時の知るところとなって隠居させられ、家長は義時に変わりました。
 義時は1205年に執権職に就いて全権を掌握し、北條氏に都合の良い体制作りを目指しました。目障りは源氏の生き残りです。源氏の血筋が残る限り、いつ北條氏の覇権が脅かされるか分かりません。頼朝の弟で残っていた全成(今若丸)を1213年に暗殺し、頼朝の庶子である能寛も高野山で自害に追い込みました。そして1219年に実朝暗殺事件を仕組みました(確証はありません)。
 実朝の暗殺は鶴岡八幡宮で起こりましたが、本来実朝に供奉するはずだった義時は急病で欠席し、彼に代わった源仲章ともども実朝が暗殺された事件です。犯人は頼家の次子公暁とされ、黒幕は三浦義村と伝えられていますが、専ら義時の謀略だとされています。公暁が義時に誘き出されていたことは間違いなく、現場で見事に二人を斬り殺して逃げおおせるほどの実力を公暁が持っていなかったことが根拠とされます。しかも一番メリットを受けたのは義時なので、首謀者である可能性が濃厚です。
 ともかく実朝暗殺犯として公暁を処刑し、同年に公暁の弟栄實を自害に追い込み、さらに翌1220年に栄實の弟禅暁も誅殺し、頼朝系の男子を皆殺しにしました。実に大胆なことを平然とやってのけた義時には打算がありました。武家政権あっての源氏であり、実朝の一人娘(頼家の娘で有るとも。出典:近藤敏喬著「宮廷公家系図集覧」)に婿を迎えて将軍にすれば十分だと考えていたようです。栄實か禅暁を還俗させて将軍とするのが本来の筋であるのに、殺してしまったことに説明が付きます。

 義時は、関白藤原(九條)道長の子頼経を迎えた1219年、4代将軍に据えました。もちろん有力者による反発が予想される所ですが、有力氏族の比企氏は頼家とともに滅び、和田氏は1213年に義時の挑発に乗って自滅し、三浦氏は実朝暗殺事件で封じ込められました。結果として義時の打算は的中し、北條氏による支配を決定づけます。
 こののち、頼経の子頼嗣を5代将軍に、前将軍頼経がクーデター未遂を起こしたことを理由に後嵯峨天皇の宗尊親王を6代将軍に・・・と皇族系の将軍を傀儡に据えて、北條氏の天下は続きました。ただし、源氏直系が絶えたことを理由に後鳥羽上皇の介入という危機は迎えました。のちに承久の変と呼ばれる事件ですが、これは次回に述べることにします。

99.07.03

補足1
 本文中の「冨士裾野での巻狩り…」を補足します。この巻狩りでは有名な「曾我兄弟の仇討ち」がありました。美談に仕立てられていますが、敢えて危険な巻き狩りで仇を狙う必要があったのか疑問が残ります。実際は仇討ちの背後で陰謀がいくつか進行していたようです。
 時政や頼朝がターゲットだったとも言われています。鎌倉で留守を守っていた範頼は、頼朝が襲われたという誤報を嘆く政子に、源氏には自分が残っているから大丈夫だ、などと言ったと伝わっています。政子の讒言で話は頼朝に伝わり、範頼は殺されることに成りました。黒幕は政子か義時という感じがします。

99.07.04

補足2
 平賀朝雅は甲斐源氏の末裔で、時政の女婿に当たる人物です。比企氏討伐や畠山氏討伐に功績があり、実朝の時代に京都守護にも就いています。実朝よりも有能に見えたのでしょうか、娘の母親である牧の方に唆されたのでしょうか、時政は無謀なクーデターを仕掛けて自滅しました。朝雅自身も乗り気であったと伝わり、存外小人物だったのかも知れません。

99.07.04

補足3
 比企氏のクーデターです。頼家と比企能員の密談を漏れ聞いた北條一族は、能員を誘き出して討ち取りました。これを知った比企一族は、頼家の長男・一幡を戴いて挙兵しましたが、北條氏に討ち取られています。このクーデターで一幡まで巻き込んだことが、頼家の子供達が将軍継承の資格を剥奪される直接の原因だったようです。頼家としては軽率な動きを見せず、もう少し慎重に行動するべきだったかも知れません。
 ところで井沢元彦氏の「逆転の日本史 第5巻」は、もう少し面白い解釈をしています。要約すると、
 頼家が病気で倒れ、そこへ能員が見舞いにきた
 そこでの謀議は、政子が立ち聞きして分かったので謀殺した
のだという。しかし、
 それでは能員は単なる大バカ者だ
 一幡が次期将軍となり比企氏が外戚となるのは煩わしい
 だから能員を呼び出して暗殺し、勝手に謀反を被せた
いうのが妥当だ、とあります。
 良い解釈ですね。私好みの仮説なのですが・・・ちょっと出来過ぎた印象もあり、二番煎じは止めました。

00.01.08
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