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日本史の研究No.14
武 士 の 興 り

 学校教育では藤原氏全盛の時代は道長と頼通の二代であったと教えます。しかし、酒池肉林に溺れ、不信心なクセに大規模な寺院建設などを行うのは王朝末期の姿であり、全盛とは言い難いところです。この二代の時代は藤原政権の末期に過ぎず、事実中央集権体制が崩れていった時代です。全盛は過ぎ去り、これまでの蓄積と惰性だけで生き長らえていたに過ぎません。普通であれば、地方から大豪族が上京してきて政権が滅ぶところですが、ある巧妙な仕掛けによって、滅亡は免れていました。
 その仕掛けとは律令体制です。中央から国司を任命して派遣するスタイルを採用していたために、地方土着の大豪族が育ちにくい体制が確立されていました。小豪族を束ねる者が出現すれば別だったのですが、当時の貴種は藤原氏のみだったこともあり、藤原王朝に徒なす者は顕れませんでした。もう一つの仕掛けは天皇神格化です。天智天皇と藤原鎌足が演出した宮廷クーデターによって、クーデター以前の歴史は史書とともに抹殺され、古事記と日本書紀に書かれた神話の歴史と置き換えられました。その過程で宮廷クーデーターの正当性を示すとともに、天皇を神格化することに成功したのです。藤原氏が天皇家を圧倒するだけの財力と武力を持ちながら、常に天皇家にかしずき天皇家を尊ぶ姿勢を取り続けたことで、臣民がみな「天皇=現人神」を疑わないだけの仕組みを作り上げてきたのです。

 中央では確かに天皇を核とした藤原政権が続きましたが、やがて地方にはその影響力が及ばなくなります。荘園の支配人に収まった地方領主達でしたが、何かと口実を設けては荘園から絞り上げようとする貴族達に愛想を尽かしました。始めは収穫の一部を横領していたものが、やがては独立して抵抗したり、近隣の地方領主を切り従えるようになりました。それさえも抑えられない中央貴族に見切りを付けた彼らは、寺社領や貴族の直轄領の併呑を進め、少しずつ纏まった勢力に成長していきました。
 もともと多くの家人を雇い領地の管理をしてきた領主達は、領内に一族や有力家人を派遣して結束を固めました。領主同士の小競り合いの必要から固有の武装集団を形成していきました。これが武士の興りです。とくに関東平野においては、いくつもの党派が育ち、広域な武士団が形成されていきます。すでに何度か蝦夷へ派遣される征夷軍に従軍させられた経験が役だったようです。

 しかし武士が党派を組み始めたとはいえ、まだまだ組織立てた行動を取ることは難しい話でした。地方領主として自己の利害関係のみを重視しましたから、彼らが協力し合う名分が無かったと言えるでしょう。もはや中央貴族に頼ることができませんから、その地方の貴種を盟主に担いで結束する方向に進みます。貴種として注目を浴びたのは、皇胤である源氏と平氏です。中央で食い詰めて地方に下ってくる皇胤たちですが、地方領主達にとっては願ってもない旗印であります。血筋の良さと都風の気品に魅了されたとも言えます。地方領主の多くは争って貴種の胤を欲し、あるいは縁を結びました。
 源氏は始め河内、摂津など畿内に展開しましたが、やがて美濃・信濃・尾張と東国へ手を拡げました。一番勢力があったのは清和源氏で、次いで宇多源氏、嵯峨源氏などに勢いがありました。また平氏は常陸・下総などへ展開し、ある者は伊勢などにも勢力を扶植しました。中でも桓武平氏が勢力を持ちました(清盛を生んだ伊勢平氏は桓武平氏ではないとする説がありますが、定かでありません)。枝葉という点では源氏が圧倒的に多かった訳ですが、源平に優劣はなく、ともに皇胤という共通点で結束していたように見受けられます。
 また藤原氏でも傍系の一族は、かろうじて得た地方国司の特権を利用して、地方に根差しました。こちらは全国各地に幅広く拡がっていますが、彼らは全体としての纏まりには欠けていたようです。平将門の乱を平定した藤原秀郷の後裔が一番発展しています。

 やがて少しずつ、源氏と平氏と藤原氏を核とした武士団が全国各地に成立し始めます。まだまだ系統化されておらず、緩やかな提携という程度でしたが・・。

99.03.01
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