律令政治で導入された最大の目玉は、公地公民と班田収受でした。これまで豪族が所有していた土地を全て取り上げ、これを臣民に耕させるというもので、発想自体は誤っていませんでした。ところが、当時の耕地は100万町歩に満たないもので、そこから国家予算(ほとんどは土地を取り上げられた貴族達を遊ばせるための費用でしたが)を捻出するためには、高率の税を掛ける必要がありました。このため、農民達は耕地を放り出して逃げ出す例が多かったのです。それでも、ただちに新しい口分田として支給すれば良いのですが、小作が逃散した田畑が正確に把握できないため、荒れ田が増えるばかりでした。また政治的に安定期に入った当時、人口は爆発的に増え、新たに割り当てる口分田が不足してきました。
最初に試みられたのは、良田100万町歩を国費で開拓するという国家プロジェクトでしたが、机上の空論に終わりました。722年のことです。仕方なく、民間活力に期待することとし、朝廷は三世一身法を出しました。わずか1年後の723年のことで、いかに無軌道な政策修正だったかが分かります。同法は、初代が開拓した土地は三代に限り私有を認めるとした法でした。ここまでは、まずまず国家再建のために考えられたことでした。
それからわずか20年後、三代の私有地にしか成らないのなら、実効は上がらないだろうという声が出てきました。何のことはない、既得権主張です。逃散した農民達をかり集めて開拓したものの、いずれ国有になるのはつまらない、と貴族達が気付いたのです。朝廷は仕方なく、墾田永年私財法を出しました。これがいかに既得権保護を狙ったものかは、身分別に開墾を許される面積が定められたことから分かります。一位の者500町歩、二位の者400町歩・・・と来て、庶民10町歩と決められました。しかも一位の者が自分で耕す必要はなく、家人が耕せば自分の所有と認める悪法でした。
永年私財が認められた時点で、班田収受は完全に破綻しました。朝廷の目を掠めて口分田を併呑し、片っ端から荒れ地に家人と農民を借り出して開墾をしました。切り開いた土地は囲い込んで荘園と称し、次々に公用地を食い荒らしました。貴族はもちろん、寺社も積極的でした。この結果として、耕地は数倍までに拡大しましたが、これを改めて公有化するだけの権限はなく、荘園から一定の収入が得られることで、朝廷は満足しました。
しかし貴族達は、努力もせずに税を掠める朝廷に不満を抱きました。貴族や寺社にはもともと免税対象の土地がありました(位田、職田と言います)。彼らのうち勢力を得た者は、朝廷に迫って荘園を全て免税とすることを認めさせ(不輸の権)、同時に荘園内の治外法権も認めさせ(不入の権)、私地私民に逆戻りしました。かつての豪族系貴族が没落し、藤原氏を中心とする新興貴族が取って代わっただけです。公地公民を始めた藤原不比等は、不肖の子孫達をどう見たでしょうか。
こうなると、税負担は地方領主の荘園にだけ掛かります。負担に耐えられなくなった地方領主は、中央の有力な貴族や寺社に結びついて(自己の荘園を形式上の寄進にして)傘下入りしました。地方領主は雇われ支配人となりますが、朝廷へ収めるよりも少ない負担で荘園を私することに成りました。貴族や寺社は労せず収入を得られるため、支配人に自由な裁量を与えるようになりました。
貴族や寺社は大いに肥え太り、地方領主も私財を積み上げるようになり、朝廷は貧しくなりました。損をしたのは自由民になったはずの臣民であり、朝廷に苦しめられたところから逃げ出したら、いつの間にか貧しい小作人に成っていた・・・という構図です。資本家と労働者に身分分けさせられたわけです。不入の権のため、荘園から新たに逃散して旗揚げすることは難しくなり、身分は固定される方向を示しました。
しかしやがて、働きもせず金を吸い上げる中央貴族が引きずり下ろされる時代がやってきます。引きずり下ろすのはもちろん、力を蓄え始めた地方領主たちです。実権を失った朝廷、歯止めの利かなくなった中央貴族の栄華も・・長続きはしなかったのです。
98.12.13
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