貴種の血筋を旗頭にして結束を強め始めた武士団ですが、全国規模ではまだまだ大きな勢力に成長しませんでした。一つには地方領主達が組織化される一方で、依然として天皇の威光が全国に及んでおり、中央貴族の支配も残っていました。大きな勢力に纏まっていく必然性が無かったのです。しかし、ある事件が大きな武士団を編成する契機になります。俘囚(蝦夷民)の長である安倍氏の反乱です(反乱というのは正しい表現ではありません。あくまで中央政府による見解に過ぎず、独立運動ということだったと思います)。長年の蝦夷民討伐を終えた中央政府は、その統率者として陸奥国を安倍氏に、出羽を清原氏に、それぞれ委ねていたものです。
中央政府の威光を最大限利用した安倍氏は蝦夷で最大勢力を有するに至り、貞任の代になって専横が著しく成りました。中央政府は源義家を陸奥国司に任じて下し、義家は近隣の清原氏の力を借りて安倍氏を討伐しました(前九年の役)。ところが、安倍氏に代わった清原氏の専横が目立つようになり、義家は独断で清原兄弟の内紛に付け入り清原氏を滅ぼしました(後三年の役)。義家は何度も公戦として認めるよう要請しましたが、官符(一切の物資や兵を徴用できる許可証)は支給されず、最期まで私戦としての扱いを受けました。
もともと義家は清和源氏の傍系に生まれ、中央ではうだつが上がりませんでした。これを機会に、義家は陸奥での勢力扶植を狙いましたが、中央政府は陸奥国司に清原清衡を任命し、義家には官位も恩賞も与えませんでした。この際、義家は私財を叩いて関東武士の協力に報いたため、「武家の統領」と呼ばれる栄誉を勝ち取り、同時に武家としての「源氏の総領」の地位を占めました。清衡はやがて藤原氏を称して奥羽に独立政権を樹立し、奥州藤原三代の基礎を築きました。
義家は私財を叩くことで名を上げましたが、中央政府から見れば奮わない存在でした。しかし関東武士の旗頭となったことは間違いありません。これを快く思わない人物が出ました。若いが謀略好きの後白河天皇は、源氏がいずれ中央政権を揺るがす存在になる、と見ていました。源氏の総領は義家の孫為義でしたが、彼の頭を押さえつけるために、平氏を引き立てました。伊勢平氏の総領である平忠盛を重用したのです。伊勢平氏は早々と都風に染まり、忠盛の振る舞いは見事であったと言います。天皇は忠盛に武士最初の昇殿を許し、忠盛が死んで清盛が総領となると寵愛は一層盛んに成りました。そして、武張った為義は遠ざけられたようです。
やがて天皇家内部の対立、藤原摂関家内部の対立が激しくなり、これに源平が加わっての内紛が勃発しました。鳥羽上皇派に荷担した為義は破れて降参しましたが、後白河天皇派の息子義朝の懇願も空しく処刑されました(保元の変)。清盛はもちろん後白河天皇派に属して大いに引き立てられ、その余勢を駆って清和源氏の勢力を大きく削ぎました。多くの身内の犠牲を払いながら得るものが少なかった義朝は、面白いはずがありません。
そして義朝は、再び藤原氏内部の対立に巻き込まれて、清盛と対決をしました。上皇となって院政を敷いていた後白河を手にして優位を得た義朝でしたが、謀略により後白河を奪われ、援軍が得られないまま清盛に敗れました(平治の変)。敗れた義朝一党は関東へ逃れようとしたものの、途上で累代の家人に騙し討ちにされ、敢え無い最期を遂げました。この際、義朝からはぐれて保護された三男頼朝は助命されて伊豆へ流され、義朝の妾であった巴御前の三人の息子も寺に入れられました。これにより清盛の圧倒的地位が確立されました。
為義や義朝が藤原氏の権威から抜け出せなかったのとは対称的に、清盛は積極的に後白河と天皇を抑えて藤原氏を圧倒しました。一族を相次いで昇進させ、各地の国司に任命して、中央と地方の独占を図りました。清盛ら平氏の専横に我慢が成らなかった以仁王は、ひそかに各地の源氏の残党に呼びかけて平氏打倒を画策しました。後白河も清盛の台頭を嫌い、平氏打倒を仕組み始めます。信州では義朝の甥である木曽義仲が挙兵し、伊豆では助命された頼朝が挙兵して、ともに平氏打倒に動きます。ここで再び源平対立の構図が始まります。
99.03.01
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