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日本史の研究No.07
そして・・・壬申の乱

 中大兄皇子が天智天皇として即位したのは668年です。その前年に大津京が完成して遷都が行われています。時の斉明天皇は大津京へ入らなかったようですから、遷都が完成したのは668年ということになります。この大津京遷都は、明治元年に平安京から千代田城へ遷都するまで、最も遠距離の遷都でありましたが、その理由は定かでありません。666年に高句麗が滅亡しており、唐や新羅による遠征の可能性を恐れたのだとも言われています。淀川を使えば瀬戸内への水利は良く、現在の淀、山崎付近を抑えれば守るに易しい地理条件ではあります。背後には越国、東国を控え、周囲には天智に友好的な渡来系の秦氏が在りましたから、安心のできる土地であったでしょうか。

 しかし私はこの説を採りません。天智が恒久的な遷都を考えたので有れば、有力豪族の多くが大和に残留したのが説明できないからです。しかも大津京の規模を考えれば緊急避難的に遷都したとは考えにくく、天智が大和を逃げ出すべき理由があったのではないか、と考えています。彼は斉明の在位中に有力豪族や、皇位継承権を持つ皇子たちを殺してきました。諸豪族がそんな天智に愛想を尽かせたと見ることもできます。また大津京には百済系渡来人を多く受け入れ、百済の亡命貴族に叙爵をし、水時計や鉦鼓を作らせて時を刻ませたりしています。天智は極端に百済人に荷担し、百済人もよく仕えています。私はこの事実を以て天智天皇百済王族説を立てました(前回を参照)。
 百済人に頼らなければならない理由は、逆にいえば大和豪族に頼れなかったということではないでしょうか。しかし天智の存命中は大和豪族も大人しかったようです。藤原鎌足も顕在であり、彼が辛うじて有力豪族達を天智につなぎ止めていたとも考えられます。大海人皇子は、天智の崩御前に出家をして吉野に下っており、無力化していました。天智の子大友皇子が即位することには問題がないはずだったのです。弘文天皇の即位でありましたが、大和の豪族達は一斉に立ち上がりました。再び京を大和に、彼らの勢力圏内に呼び戻そうと暗躍を始めたのです。鎌足の子不比等はまだ13歳であり、調整役として全く期待できない存在でした。また天智の死によって百済渡来人の結束も乱れつつありました。

 有力豪族達は大海人の担ぎ上げに出ました。一度は野心を消してまで下野した彼を、豪族達は祭り上げたのです。大海人に人望があったと見るべきか、他に担ぐべき人が居なかったのか不明ではりますが、大海人は積極的に挙兵したのではあるまい、と思うのです。その証拠として、大海人の準備不足を挙げることができます。彼は自らの皇子である大津と武市を大津京から呼び戻していますが、ほぼ単身で東国へ落ち延びています。従う数は舎人20人、女官10余人であったと伝わっています。そして伊賀、伊勢、尾張へと移動し、その過程で大軍を組織しました。次いで美濃の不破関へと進み、ここを封鎖しました。さらに軍を二手に分けて湖東、湖西へ進撃しつつ、大津京を目指しました。これに呼応する大和豪族は難波、山崎の要所を押さえ、南から大津を目指しました。完全な包囲体制の下で、弘文は兵を動員できずに壊滅の憂き目を見ました。弘文の自縊死により壬申の乱は終わりました。

 弘文は確かに縊死したでしょう。しかし自発的であったかどうかは不明です。当時の皇族の死に自縊死が多かったことは認めますが、西国や越国へ落ちることはできなかったでしょうか。彼が生き続ける限り大海人は即位できないのですし、挽回も可能であったかと思うのです。このため内部反乱も合わせて考える必要があります。
 しかし大海人の戦略構想は素晴らしいと思います。電撃行動に出て尾張・美濃を従えて天皇派を押さえ込み、ついで不破関を固めて東国への援軍要請への道を封じ、湖西への分遣隊を編成することで越国入りをも封じ込めました。さらに大和の別働隊は難波、山崎という戦略ポイントを押さえ、水陸から西国への援軍要請を封じ込めています。仮に西国の兵が来着しても山崎以東への進撃は難しかっただろうと考えられます。

 大海人が単身東国へ下った理由は、大和での謀殺を恐れたからに違いありません。彼を推戴する豪族は多かったのですが、敵対する者もあったろうし、気変わりする者もあり得たでしょう。まず直属軍を編成して自身の安全を確保してから、大和豪族を自発的に動くよう促したと見るべきです。しかし大海人の戦略構想は素晴らしい。当時の日本でここまでの戦略構想を展開できた人がいるのは非常に疑問です。まさに孫子の兵法に匹敵するような鮮やかさです。吉野に隠棲中に戦略を煮詰めていたのかも知れませんが、あまりの手際よさから、これもまた大海人を倭人ではないとする仮説の根拠としたいところです。

98.03.02
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