中大兄皇子こと天智天皇崩御の年は671年であり、享年58歳と伝わっています。弟の大海人皇子こと天武天皇は686年崩御で65歳でありました。逆算すれば天智天皇は614年、天武天皇は622年の生まれで何の問題も無いように見えますが、大化改新当時の645年には中大兄は20歳であったはずです。この計算では当時31歳の立派な皇子に成長していたはずですから、問題なく即位できたのではないでしょうか。また天智の兄と伝えられる古人大兄皇子は、彼は645年30歳で亡くなっていますから、616年の生まれで天智よりも弟になってしまいます。また斉明天皇は668年崩御で68歳ですから、601年の生まれです。中大兄は13歳での子であり、当時としても早い出産ではなかったでしょうか。
天智が645年に20歳であったことを信じれば、625年の生まれで享年47歳です。しかし斉明24歳の子であり、最初の出産にしては遅すぎるようです。そして天武が天智よりも兄に成ってしまいます。単なる記録間違いかも知れませんが、おそらく享年は正しいはずですから、二人が斉明の皇子である点に問題があるのではないでしょうか。ちなみに2皇子の父である舒明天皇は591年生まれ640年崩御でありましたから、中大兄20歳説では舒明34歳、中大兄31歳説では舒明23歳の皇子となります。どうも中大兄20歳説が怪しいようです。
前置きが長くなりましたが、天智には皇位簒奪の疑いがあります。彼が真実に斉明の皇子であったなら斉明崩御を待ち、群臣の推戴を受けて得た皇位であるから簒奪ではありません。とはいえ、斉明を大和に残したままで、天智は大津に不自然な遷都をしています。そして、大海人皇子による天武即位は明かな簒奪です。天智の皇子である弘文天皇(大友皇子)を攻め滅ぼして得た皇位であるからです。残念ながら、日本書紀は弘文の存在を認めていません。大友と大海人とが皇位継承を賭けて壬申の乱を戦ったことにしている(つまり簒奪はなかったとするスタンス)のです。書紀の編纂が天武王朝で行われたことに理由があります。その後江戸時代の大日本史(水戸光圀が編纂を命じたものです)は弘文を天皇の一人に数え、1870年(明治3年)に正式に天皇として数えるとする詔が出ました。つまり公式に皇位を簒奪された天皇と認定したのです。
では大海人とは誰なのか、という疑問が残ります。
まず、大海人が正当な皇位継承者であった可能性を考えます。生没年の怪しさが残るものの、大海人は天智よりも10歳ほど若いのですから、天智がリリーフ天皇として即位した可能性があります。これは天智天皇が即位と同時に大海人を皇太弟と定めていることからも理解されますが、中大兄よりも大海人の皇位継承権が高いことが前提となります。中大兄の母が斉明天皇でなく身分の低い女性であったか、そもそも遠縁の皇族であったかした可能性もあります。大王家では同母兄弟姉妹の結婚はタブーでしたが、叔父と姪、叔母と甥の結婚は許されました。天智は二人の皇女を天武に与えており、同母弟にそこまで尽くす理由は見当たらないのです。両者の関係が姻戚を結ばねばならないほど遠い関係だったと考えるのが自然でしょう。
つぎに、大海人が皇族でない可能性を考えます。前回に大胆な推測を立てましたが、仮に天智が百済王族であった場合、大海人も大王家の皇子ではないでしょう。その場合は、彼に同様の地位を要求するだけの資格があったと見なくては成らないのです。例えば彼もまた百済王族の出身である可能性(他国の王族の場合は天智系の皇子の系統を残す理由が見当たらない)、大王家の皇位継承者を排除するに当たっての大きな功績を立てた可能性(彼は大化改新には名を記されるべき功績がない)、などが考えられます。天智の個人的な弱みを握って脅迫した可能性はほとんどないと思うのです。大和豪族の多くが大海人を推した理由も考慮する必要があります。
天智は大海人に皇位を譲る約束をしておきながら、我が子かわいさに約束を反故にしたようです。もともと謀略好きの天智天皇でしたから、大海人に譲位をちらつかせて見たようですが、出家するという大海人を信用して野に放ってしまいました。大海人の謀反をでっち上げるだけの口実も余裕も無かったのかも知れません。そのことが壬申の乱を招き、天智系の一時的衰退を招きました。
98.02.20
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