日本史の研究No.05
中大兄皇子は倭人だったのか
大兄
(おおえ)とは皇子たちの年長者という意味に近いですが、皇太子ほどの意味合いはありません。古人大兄、山背大兄、押坂彦人大兄など飛鳥朝で見られる称号です。ここに上げた皇子たちはいずれも天皇として即位していません。
中大兄
は、のちの天智天皇です。大化改新で活躍したこの皇子は、皇極天皇(後の斉明天皇)の長子であり、皇位継承順位は高かったにも関わらず、無謀な賭を仕掛けて勝利を掴みました。しかし皇位は天皇の弟である軽王(孝徳天皇)に譲られ、孝徳天皇の死後は皇極天皇が斉明天皇として再び即位し、孝徳の皇子である有間皇子が皇太子に擬せられました。天皇の長子でクーデターの首謀者であった彼が、無欲にも他人に皇位を譲ったとは考えにくいです。彼には皇位継承権が無かったか、低かったか、したのであろうと推測しています(
第2回
参照)。
中大兄は、異母兄の古人大兄があり、長子ではありません。しかし古人大兄は、蘇我系の皇子であり、蘇我入鹿を後ろ盾としていていたため、645年6月に入鹿が暗殺されて以降は、居ないも同然でした。同年9月に謀反の疑いありと密告されて攻め滅ぼされました。典型的な謀殺であります。
さらに649年3月、蘇我氏を分裂させるのに協力した倉山田石川麻呂が同じく謀反の疑いありとして攻め滅ぼされました。また10年ほど経った658年に、19歳の有間皇子が誅殺されました。蘇我赤兄の謀略に填められたと言われます。蘇我赤兄は石川麻呂の異母弟であり、石川麻呂の謀反を密告(でっち上げ)した人物でもあります。差詰め、中大兄の密偵であったと思われます。
これにより皇位継承者は、中大兄皇子のみに定まり、全権を掌握することが可能となったのです。
中大兄とは、一体何者なのでしょうか。斉明即位の時点で中大兄に皇位継承権が無いのは明確です。異例の女帝、異例の重祚という状況まで踏んで、中大兄が即位しない理由は見当たりません。入鹿暗殺で穢れを受けたと考えたのでしょうか(彼は自らも剣を振るったと伝えられています)。中大兄は既に成人しており、行政能力を最大に奮っています。その地位は摂政というよりも大臣に相当したでしょう。誤解が無いように言いますと、中大兄という皇子はいたかも知れませんが、天智天皇となった人物とは別人だと思うのです。
その中大兄が646年1月に四大方針を打ち出しました。公地公民、畿内を中心に国司・郡司の設置、戸籍・計帳の整備と、口分田の配分、庸・調の義務づけ、の四政策です。これが入鹿暗殺後、わずか6か月余りで発布されたのです。彼はどこでそんな知識を身につけたのでしょうか。天智に渡航歴はないとされています(そもそも当時の皇族は畿内からも出られなかったはずです)。僧旻や高向玄理など大陸帰りの留学生や学僧も居ましたが、彼らが入鹿在世中に生臭い政治論を吐いていたとは思えません。6か月余りのレクチャーで身に着くとも思えないし、彼らがそこまで行政を学んできたとも考えがたいです。
しかしながら、中大兄に余程の確信が無ければ、こんな大胆な政策の実施は不可能です。彼は少なくとも唐の行政が優れていることを事前に知っていました。公称21歳の彼が知識以上に知っていた可能性が高いのです。つまり唐の影響力が強い国で生まれ育った可能性があります。
彼が唐人であった可能性はまずないでしょう。随の王族であった可能性はあり得ますが、随王朝は実質2代であったので、さほど亡命皇子が多いとは考えられません。残るは朝鮮半島です。
#N8月百済から要請を受けて朝鮮半島に大軍を派遣しました。派遣軍は唐と新羅の連合軍を相手に大敗を喫しています。白村江の戦いであります。百済はすでに義慈王が殺され王族は根こそぎ唐へ連れ去られています。唯一の王族は蘇我蝦夷が庇護していた豊璋でありました。中大兄は勝算ありと踏んだものか豊璋とともに大軍を送り込んだのですが、無謀としか思えません。百済は一度滅んでおり、唐と新羅の不和につけこんで挙兵した残党に協力した程度でした。大唐に太刀打ちできると考えたのでしょうか。周囲の学僧たちから唐の偉大さは知っていたはずですし、だからこそ四大方針を打ち出したはずです。
領土的野心も無いはずです。朝鮮には日本の拠点はなく、蝦夷地の併呑のほうが効率がよいからです。残る可能性は、
中大兄が百済王族の出身だということ
です。そもそも豊璋は義慈王のクーデターにより殺された先王の子です。お尋ね者の豊璋を匿い、百済の使者を必ず彼に目通りさせたという蝦夷の行動を百済が厭わなかったはずがないでしょう。真の友好国であったなら、豊璋は百済に送還されるべきだったと思うのです。しかし中大兄も豊璋を生かし続けていました。その異常さは、中大兄が百済王族であれば理解もできます。彼にとっても義慈王は帰る国を失わせた張本人であり、豊璋の心情が理解できるからです。
中大兄はすでに日本の実権を握りつつありました。皇位継承者は全て葬り去り、残るは斉明崩御を待つばかりです。そんな彼が百済王の地位を求めるはずはないでしょう。しかし親族の豊璋を王位に就ければ百済に対しても影響力を行使できます。もしも失敗しても豊璋を失うだけで良いのですし、将兵を失うことも有力軍事氏族の力を弱めるだけのことで、中大兄の腹は痛みません。結果として日本は大敗し、豊璋は自害して百済が滅亡しました。亡命皇子と生え抜き将軍の足並みが揃わなかったことが理由であるそうです。唐・新羅の連合軍は、高句麗との戦いを控えていたため、日本へ押し寄せることは回避されました。
#Nに、白村江の失策は冒しつつも中大兄が天智天皇として即位しました。他に皇位を争う者もなく、直接対決できる豪族も滅んでいました。日本書紀は天智天皇の即位前後をかなり脚色していますが、それでも胡散臭さはプンプンとしています。それ以前の公式記録と伝えられる「天皇記」と「国記」は失われています。ともに蘇我馬子が編纂を命じた書物ですが、具体的な内容は伝わっていません。蝦夷が焼いたのだとも言われていますが、国家的事業ですから、大王家に写本が無かったとは考えがたいです。おそらく中大兄の正体がばれることを恐れて焚書されてしまったのだろうと考えています。
98.02.20
補足1
孝徳・斉明の時代に中大兄が実権を握っていたのは間違いありません。653年に孝徳天皇と不和になった中大兄は、皇祖母(皇極)や皇后(間人皇女)らを連れて難波京(大坂)から倭故京(飛鳥)に引き揚げるという荒技を演じました。孤立した孝徳は、これを深く恨み翌554年に亡くなっています。
ちなみに、間人皇女は皇極の娘で、中大兄と愛人関係にあったという説もあります。とすると、中大兄は同母妹との近親相姦ということになります(当時でも、禁忌でありました)が、本当に皇子は皇極の皇子だったのでしょうか? この辺りに中大兄の出自の謎がありそうです。
01.04.29
補足2
斉明の崩御は661年とされます。660年に滅亡した百済を救援するために、九州の筑紫まで進出したのちに陣没したとされています。その後、663年に白村江の戦いがありましたが、668年の天智即位まで7年間の空位があったわけです。この間、天智は「称制(皇位につかず政務をみる)」にあったとされますが、結果論であり、新王朝誕生の機会を待っていたと見るべきではないでしょうか。668年には高句麗も滅亡しており、唐との対決上、強いリーダーを求めることが高まったと見るべきだと思います。
01.04.29