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政治の研究No.175
今こそ、立憲君主制へ(1)

 日本の政治は、いよいよ衆愚化の色合いを濃くしてきました。自民・公明・保守の三与党による長期安定政権の時代を迎えています。不甲斐ない民主党の存在が、それに拍車を掛け、保守・革新という枠組みの崩壊も一因となっています。本来であれば、与党による強力な推進力が期待されるチャンスにも関わらず、与党の足並みが揃わず、最大政党の自民党内もバラバラです。
 派手なパフォーマンスで鳴らしてきた小泉内閣も、崩壊の危機を迎えています。有力な対抗馬が出現せず、惰性で政権が維持される模様ですが、その実態は死に体です。閣僚の首を何度すげ替えてみても、目前の経済危機への対処能力を欠き、足下の政治改革さえも未達成です。政治資金規正法違反に問われた坂井隆憲議員のスピード逮捕がありましたが、またも予算案を肴にしての喜劇が展開されています。会議は踊るが、なお進まず。。。イラク問題や北朝鮮問題は他人事でないはずですが、これも米国ベッタリの自主性無し。

 国際政治は、覇権国家の途を選んだ米国主導の衆愚化が進んでいると、前回に書きました。否定される方も多いでしょうけれど、衆愚は寡頭政治において顕著であり、それぞれの頭が自分勝手な利益を優先し、全体の利益を考えないことに端を発すると考えます。安全保障理事会一つを取っても、その傾向は変わらず、サミットでも同様です。せめて米国に一本化、つまり米国による国際覇権の確立ができれば、米国主導で纏まるのですが、それさえも望めません。
 国内政治は上記のとおりで、せめて自民党内が一本化され、かつ与党が自民党主導で運営されれば、衆愚化を避けられます。自民党による強権化、さらに進んで覇権化が実現することが一つの選択肢です。そのためには、自民党による衆参単独過半数が必要ですが・・仮に実現したならば、再び党を割って新党が生まれかねません。それほど、今の自民党の衆愚化、さらに与党の衆愚化が進んでいると考えます。
 大勢による衆愚政治も、過去に例はありました。国際政治では、国際連盟の時代がそれで、大国も小国も対等の資格が与えられたために、その纏まりを欠いて空中分解し、第二次世界大戦を回避できませんでした。その反省を踏まえて国際連合がありますが、米・英連合による覇権路線によって、その存在意義を問われ始めています。国内政治では、経済運営に関する現状がそれで、百家争鳴して百論噴出・・・船頭多くしても船は山を登れません。首相を核とした強力なリーダーシップシステムが機能しない限り、経済運営の衆愚化から脱することは叶いません。

 さて、本来であれば、行き詰まった政治状況を打破するために、何らかの手段が打たれます。国内政治であれば、劣勢にある首相が国会を解散し、国民の信頼を問う必要があります。有権者たちは、小泉改革を支持するのかしないのか。その改革に反対する与党議員や官僚をどうするのか。小泉改革信任となれば、改革に反対する議員は落選し、反対する官僚は主要ポストを追われるはずです。
 しかし、選挙直前になれば全ての議員が親小泉となり、選挙後には元通りの反小泉に戻ってしまう。反小泉が有力な対抗馬を担げるなら、打開も可能です。しかし、対抗馬になる人材を欠き、それと思しき人材は能力やビジョンを欠きます。反小泉派も小泉内閣を担がざるを得ず、それでも改革には反対するという「天の邪鬼な政局」になります。公明・保守の両与党としては、自民党が一致団結し、その主導で改革が進むのは都合が悪い。しかして、自民党内の混乱を喜ぶことになります。対決すべき民主党は、さらに近視眼で困ります。
 そんなわけで、いつまでも「コップの中の戦争」を繰り広げています。当人達は必死ですが、観客である国民には喜劇としか見えません。マスメディアがご丁寧にも喜劇の芝居立てを解説してくれます。国民はその喜劇に厭き、社会不安の高まる現実に危機感を持ち始めていますが、それを政治的に解決する手段を思いつきません。仮に有力な候補があっても、その候補者に絶対的な権限が与えられない現在の土壌では・・・無益です。

 日本の歴史を振り返ると、こうした危機感と閉塞感に満たされた時代には・・・天皇の重要性が高まりました。例えば、鎌倉末期から「建武の新政」、室町末期から「織豊の時代」、徳川末期から「明治維新」。いずれも時の政治基盤を破壊し、新たな時代を担うターニングポイントで、天皇が重要な役割を果たしました。天皇機関説を持ち出すまでもなく、天皇には国内混乱期における国論統一を実現する機能がありました。
 終戦までの「大日本帝国憲法」においては、第一条に「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」、第三条に「天皇は神聖にして侵すべからず」、第四条に「天皇は国の元首にして統治権を総覧し此の憲法の条規に依り之を行う」とありました。明確な立憲君主制でありました。終戦直後の憲法改正によった「日本国憲法」においては、第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基く」とあり、主権在民による完全民主制であります。
 天皇が象徴となったことで、主権者たる国民は諸権利を得ましたが、同時に自ら主体となって国家を運営する義務を負いました。今は、その権利への要求が強すぎる一方で、義務を十分に果たせない状況にあります。権力闘争に明け暮れて、危機対処能力を失った行政・立法機関が袋小路に嵌って、身動きできません。これを打開するために、再び天皇を担ぎ出し、一気に改革を行うべきではないでしょうか?

長文になりましたので、次回に続きます。

03.02.23
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