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日本史の研究No.27
守護大名 の 台頭

 鎌倉政権の崩壊、建武の新政、南北朝・・・と相次ぐ戦乱の中で、御家人制度は消滅します。中央の混乱は地方へと波及し、荘園・地頭制度そのものが否定されたためです。ある者は在地勢力として成長し、ある者は混乱に飲み込まれて消滅しました。中でも勢力を伸ばしたのは守護です。
 朝廷の任命する国司とは異なり、将軍が勝手に任命する守護は、鎌倉政権の崩壊で事実上消滅しました。とはいえ、鎌倉時代末期に勢力を伸張させた守護は、国内への勢力を伸張し、事実上の国主へとのし上がっていきます。領内の御家人勢力を飲み込んで土着化し、荘園や公衛領を併呑していきます。その大義名分は、天皇なり将軍への荷担であり、地方の混乱の収拾でした。
 有力な守護はすでに複数の地頭職などを兼ねており、また隣接国にも勢力を扶植して拡大していきます。守護の権限が強大化することに伴って、守護家内部での権力争いも発生します。一方が宮方(南朝方)を称すれば、他方は武家方(北朝方)を称します。いずれも中央と結びついて、権力を奪い合う構図です。守護職も事実上の自称ですから、勢力の強い方が正当を称し、弱小勢力を次々に束ねていき守護大名化します。

 なかでも足利将軍に近い位置にあった守護大名達は、将軍の威光を背景として複数の守護職を兼ね、尊氏がこれを追認したために、強大な守護大名が出現します。自ずと足利将軍家の直轄領は狭く、養える兵も少なく、全国に威を轟かせるという風情にありませんでした。低い身分しか持たず、にわかに勝ち得た権力を振り回す守護大名達のやり放題が罷り通ります。
 南北朝時代、バサラ大名と呼ばれる守護大名が幾人も登場します。古い権威や習慣に捕らわれず実力本位に振る舞う彼らは、奇天烈な行動を好み、派手で粗野な風情を好みます。代表格には、近江の佐々木道誉、美濃の土岐頼遠、そして高師直ら武功派があります。彼らの取り巻きも当然ながらバサラに染まり、都中で闊歩しました。専ら尊氏自身がバサラ好みであったこととも関係があるようです。尊氏は染まらなかったようですが、彼らのバサラ放題を眺めて楽しんでいたようです。
 しかし政権が安定に向かえば、武功派が排斥されるのは当然の帰結です。バサラ大名達を闊歩させて置くことは幕府の品位を問われますし、いつまでも有力な守護大名の連合政権というスタイルであっては不安定であります。道誉は妙法院に火を掛けた咎で、頼遠は光厳院の駕籠に弓引いた咎でそれぞれ退場し、師直も直義との政争に敗れて排斥されました(道誉は近江に復帰しましたが、表舞台からは隠棲)。その他にも地方で成り上がった守護大名の多くは整理され、少しずつ足利幕府という形に盛り上がっていきます。

 室町幕府という形が整うのは、京都に室町御所を造営し強大な権力を握り込むことになった、三代将軍足利義満の時代です。11歳で将軍宣下を受けた義満は、依然として強大な守護大名に目を付け、1390年には東海3カ国の守護を兼ねた土岐氏を征伐(美濃の乱)し、1391年には西国を中心に11カ国の守護を兼ねた山名氏に軍事介入(明徳の乱)しました。さらに1399年には西国6カ国の守護を兼ねた大内氏を誅滅(応永の乱)しました。最有力な守護大名が相次いで討伐されたことを受け、残る守護大名達も幕府の威に服します。
 その後は、細川・斯波・畠山など有力な一族を地方に配して一族色を強めます。彼ら一族がそれぞれ数カ国の守護を兼ね、隣接国を支配させないなどの配慮はされました。しかし、一族が新たな守護大名として成長していくことは避けられません。当面の危機は回避されるものの、後々の火種を抱えることになりました。

00.01.08

補足1
 幕府は、遠国の支配のためにいくつかの探題を設けました。まず鎌倉府を設けて関東8カ国の束ねを命じました。初代長官(通称、鎌倉公方)は、尊氏の子・基氏です。ついで、九州に西国探題を設置し、九州9カ国を支配させました。初代長官は一族の今川貞世でしたが、義満によって更迭され名目のみに成りました。さらに、東北に奥州探題と羽州探題を設置しましたが、のちに鎌倉府の管轄に変わっています。
 鎌倉府は8カ国に陸奥・出羽・甲斐を加えた12カ国を支配し、度々幕府の命令を受け付けなくなりました。それを牽制する役割を担ったのが、関東管領に任ぜられた上杉氏で、度々鎌倉公方と関東管領が騒動を起こしたようです。結局のところ、1438年に五代将軍義教の討伐を受けることに成ります(永享の乱。足利持氏の反乱)。次代の成氏が再び造反して下総・古河へ逃れ(古河公方)、幕府の再派遣した政知が伊豆・堀越に留まり(堀越公方)、二公方並立などと混乱します。
 その後は、関東管領の上杉氏が四系統に別れて争い、中でも扇谷上杉氏と山内上杉氏が覇権を争うなどし・・・最後まで関東は纏まらなかったようです。

00.01.08

補足2
 三代将軍義満は、細川・斯波・畠山の三家を管領家と定め、鎌倉政権の執権に相当する足利家の執事管領を交替で出させました。また、管領に次ぐ要職である政所長官には、山名・赤松・一色・京極の四家から交替で出させ、これを四職家と呼びました。いわゆる三管四職に権力を分散させ、互いに争わせることで、足利家を脅かす勢力を未然に防ぐ役割を果たさせました。
 補足1で挙げた21カ国を除く45カ国が幕府の直轄になる計算です。これら45カ国には三管四職の家柄から守護が任命され、当然ながら数カ国の守護を兼ねる有力な者が現れてきます。強大な一家は出現しなかったものの、有力な守護大名家を複数育てることになりました。

00.01.09

補足3
 三代将軍義満は、土岐・山名を討伐していますが、いずれも一族の内紛に付け込んだに過ぎず、義満方の一族が守護大名として名を残しました。大内氏の場合、鎌倉公方や東国の守護大名と語らって大規模な反乱を企んだのですが、当主義弘の討ち死にののち、一応守護大名としての名は残しています。せいぜい所領を削るまでで、しっかり地方に根を張った守護大名を根絶やしにするのは、義満の強腕を以てしても難しかったのではないでしょうか。

00.01.09
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