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日本史の研究No.28
北山時代 〜 東山時代

 京都の金閣は、足利義満の作った北山第の名残です。金色に燦然と輝く寝殿造の建て屋は、全国から金と人夫を集めて作られ、当時の建築技術の粋が凝らされています。将軍の強大な権力が窺える建築物であり、この時代を北山第に因んで北山時代と呼んでいます。義満は、当時の後小松天皇と張り合って、自らを同格並みに演出するなど、派手な振る舞いが目立ちました。有力な守護大名を排斥したという自負もあったでしょう。
 義満は1397年に子・義持に将軍職を譲ったものの、その後も院政を敷いて、事実上の国主として振る舞いました。勘合貿易を始めていた明から、日本国王に封ぜられていることも一例です。結局は、1408年に北山第で20日間も後小松を歓待した後、流行病に倒れ、1か月後に急死しています。院政は実に11年間にも及び、義満の独裁に飽いた誰もが喝采を叫んだのではないでしょうか。

 四代将軍義持は、北山第の多くの建物を解体した上で、鹿苑寺として仏寺にしました。対明貿易を一方的に打ち切り、後小松から贈られた義満への諡号を返上し、弟義嗣を遠ざけて殺させるなど、反義満路線を敷いたようです。ところが、対明貿易の中止がそのまま将軍家の資金力低下に繋がり、弱体化の原因になります。また就任当初から有力な守護大名に見くびられたこともマイナスだったようです。
 義持は1423年に子・義量に将軍職を譲り、自分も院政を執り始めました。しかし、守護大名達の振る舞いはますます目に余り、17歳で就任した義量が19歳で早世してしまいます。義持は再び将軍職に返り咲きましたが、もはや戯れで済まされず、完全にお飾りの将軍として苦しんだようです。
 六代将軍には、義持の弟義圓が還俗(法体から俗体に還ること。出家の反対)し、義教と名乗りました。彼にも義満の子としての自負があり、守護大名の幾人かを無礼打ちするなど、強い将軍を印象づけようとしたようです。ところが1441年、四職の1人であり三カ国の守護を兼ねる赤松満祐の自邸で、義教は暗殺されてしまいます。赤松氏は山名勝豊によって討伐されますが、将軍家の威信は完全に落ちました。
 七代将軍には義教の子・義勝が8歳で就任したものの、8年足らずで早世しました。このため八代将軍には、義勝の弟義政が8歳で就任することに成りました。

 義政の将軍就任は1449年で、義満死後に幅を利かせた有力守護大名も相次いで代替わりしました。義政は外戚の日野氏・養育係の伊勢氏のサポートを得て、ひとまず親政の土台を得ました。管領の細川勝元もまだまだ若く、老練な重臣が不在になったことも理由でしょう。
 義政は優柔不断な性格であったようで、日野氏や伊勢氏の政治介入を許したほか、愛妾にまで政治に口出しをさせたようです。しかし政治的に無能というわけでもなく、若くして老獪な政略に長けていたようです。守護大名家の争い事に首を突っ込んではかき回し、重臣達も振り回しました。口うるさい伊勢貞親(北條早雲の縁戚という説もありますが)を排斥し、弟義視に後継含みで気を引くなど、政治を玩具にしていました。
 しかし、管領勝元がようやく檜舞台に登場し、対抗馬に山名勝豊(宗全)が上ってくると、義政の気まぐれも通りにくくなります。義政は室町御所の新築を強行しようとし、御所では毎日宴会三昧だったと伝わっています。地方では大規模な飢饉が蔓延し、食い炙れた者が次々に都に出てくるようになっても、政治は改まるように無かったのです。

 義政の時代は、銀閣(応仁の乱後に着手し、当初は銀箔を貼る計画だったらしい)が造営された東山に因んで、東山時代と呼ばれます。権力争いの末に、正しい政治が機能しなくなった不安定な時代です。世の中の歪みを調整するべく、歴史は大乱を呼び込もうとしています。辛うじて一本化されていた政権が、大きな混乱へと変じていくキッカケでもあります。10年間に渡る応仁の乱、そして戦国時代の幕開けです。

00.01.08

補足1
 足利幕府は室町幕府と呼ばれますが、これは義満が京都・室町に造った「花の御所」が由来です。幕府自身が室町幕府を名乗った訳ではありません。そういう意味では室町幕府も無かったと言えるかも知れませんが、一応幕府という組織名称は使われていますし、通称として室町幕府も使われていたでしょう。専ら「御所」とか「御上」という呼び方が一般的であったようですが・・・。
 義満の台所を支えたのは、対明貿易による潤沢な収入であったようです。当時は倭寇が蔓延って正常な貿易が難しかったようですが、義満の武威と勘合符による許可制貿易を導入したことが、大きな収益を生んだようです。また奉行クラスに優秀な官僚を抱えていたこともあります。アニメ「一休さん」に出てくる蜷川などがそうです。ちなみに大徳寺住職となる一休和尚には、後小松天皇の落胤という説があります。

00.01.09

補足2
 足利将軍家は、日野家から代々の正室を迎える慣習があったようです。比較的非力な貴族から迎えることで、強大な外戚の出現を排除する狙いがあったのかも知れません。義政の母は日野重子、妻は日野富子です。富子は金銭欲が強く、畿内に関所を設けては上がりを私物化し、それを高利貸しで運用していたため、随分と重臣に恨まれたようです。富子の蓄財に、義政は手を出せなかったとか。
 応仁の乱の発端は、自ら短命に終わると予感した義政が、弟義視に将軍職を譲る約束をしていたことです。ところが義政の治世は長く続き、富子に義尚が誕生したことが、将軍家内部の対立を生む結果になりました。とはいえ、義視自身は非力な将軍職に魅力を感じていたかどうか定かでなく、富子に排斥される危険を感じて対抗馬に名乗り出た感があります。
 ということは、乱の原因は、義政と富子にあるという話になりますが・・・。

00.01.09
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