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日本史の研究No.26
南朝の抵抗、足利兄弟の対立

 後醍醐天皇は、最後まで武士の不満に気付くことなく、再び京を追われました。播磨の赤松氏は足利に寝返っており、頼りに成るのは楠木一族と南都系の僧兵達という所です。地方各地に下した親王達の活躍は見られるものの、その勢力は弱いものです。とはいえ、南朝の抵抗は続きます。

 まず1338年、奥州で義良親王を奉じる北畠顕家が、再び上洛してきます。後醍醐の期待に応えようと無理をしたことが応え、畿内の南朝方との連携を欠いた顕家は、美濃で寡兵の土岐一族に阻まれ、尊氏に徴兵の時間を稼がれる失策を冒しました。顕家は摂津・阿倍野で北朝方の大軍を引き受けて戦死し、東北・関東の公家方は大きく勢力を削ります。
 同じく1338年、北陸で尊良・恒良親王を奉じる新田義貞が、越前からの上洛を試みます。ところが、すでに顕家撃破で自信を付けた尊氏軍に阻まれ、あろうことか総大将の義貞が、深田に馬の足を取られるというミスで、戦死しました。その子義興は関東での巻き返しを意図しますが、家人に裏切られて多摩川で騙し討ちに逢ってしまいます。その後もささやかな抵抗は続いたものの、北陸の公家方も壊滅的でした。
 九州の懐良親王も北九州で勢力扶植に務めましたが、九州探題の今川了俊の活躍で尊氏派が勢力を増し、頼みの菊池一族の回復も成らず・・・九州でも公家方は潰えます。尊氏は光明天皇から征夷大将軍の宣下を受け、念願の幕府を開きました。ところが、尊氏は弱体化した南朝勢力にトドメを差しきれず、いわゆる南北朝時代が到来します。

 翌1339年に後醍醐が病没し、奥州から海路で戻った義良親王が即位します。南朝の二代目となる後村上天皇です。南朝の害意が弱まったと見たものか、尊氏は積極的に吉野への派兵を決意しませんでした。第一に、吉野は山深い土地柄で大軍を派遣するのは難しいこと。第二に、天皇の正当性を示す「三種の神器」が後村上天皇に継承されており、大義名分は見当たらないこと。第三に、尊氏自信が南朝との平和的解決を望んでいたこと、などが理由に挙げられるかも知れません。
 微妙な均衡は10年近く続きますが、1348年に楠木正行が上洛を試みます。正成の子である正行は、若き当主として畿内の公家方を率い、和泉や紀伊で優位な戦争を繰り広げました。しかし四条畷で圧倒的な大軍を引き受け、弟正季と差し違えて戦死します。これにより南朝方の勢力はほぼ壊滅状態です。正行の末弟正儀は、一族を束ねきれずに北朝方に寝返り、さらに南朝方に帰参するなど混迷します。

 南朝方の凋落がある中で、足利兄弟の対立がありました。尊氏には直義という弟があり、全国各地に散らばる一族の束ねと、事実上の参謀役を宛っていました。しかし、戦上手ではなく、中先代の乱での敗北などもありました。将軍就任後も政務全般を委任し、幕府の基礎整備なども直義が指揮していました。その直義に強力な対抗馬が出現します。代々足利氏の家宰(執事)を務めていた高一族です。高師直は、交渉術に長け主に渉外役を自認していました。その後は足利家の軍事権を掌握し、顕家や義貞・正行の討伐軍の総大将でもありました。
 尊氏は直義の権力増大に危惧を抱き、積極的に高一族と争わせもしたようです。不平を鳴らす直義から政務を取り上げ、親政に乗り出そうとしました。おっとりして見えた尊氏は、かなりしたたかな人物であったようです。表向きの凡庸さと裏腹に、計算高く陰湿な性格も備えていたようです。尊氏の実子で、直義の養子となっていた直冬が九州で反乱を起こしたことから、兄弟の対立は表面化します。

#N、尊氏は高一族を率いて直冬討伐に出陣しましたが、直義は南朝方に降って南朝軍を引き入れ、各地の直義党に呼びかけてクーデターに成功します。直義党の中核は、同じく高一族の専横に不満を抱く足利一門衆でした。尊氏は、直義に城下の盟を誓わされ、講和の条件であった高一族を粛正します。再び直義が政務を掌握することになり、尊氏にも焦りが出てきます。
 次には尊氏が南朝方に降伏し、北朝の廃止を宣言します。さらに一門衆に危機を訴えて巻き返しに出たとき、直義は謎の病死を遂げ、致命的な対立が回避されました。ご都合な病死には、陰謀や暗殺が付き物です。結局のところ、北朝は廃されることなく、まだまだ南北朝の時代が続きます。

00.01.08
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