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経済の研究No.102
戦後の証券行政(改題)

 戦後の証券行政は1948年5月の新証券取引法施行により始まりました。同法は米国のSEC制度を受け入れて整備されたもので、これを主導したのは、GHQ証券行政担当官であったアダムスであり、彼がサンフランシスコ株式取引所の正会員であったことから、SECの制度をそのまま持ち込んだものです。これに伴い、日本版SECである証券取引委員会が、独立組織として設置されました。
 GHQが新証券取引法の整備を急いだのは、健全な経済復興を実現するためには自由市場を早急に立ち上げる必要があると判断したことと、財閥解体により大量の株式を市場に放出する必要性に迫られていたことが理由です。SECには、アンダーライター(引受業務)やディスクローズ(情報開示)、インサイダー取引規制など今日問題視されている事項についての規程がありましたが、何故か新証券取引法には盛り込まれませんでした。また証券取引委員会の規模もSECには似つかないほど少人数の構成を採用しました。政治家たちが最初から証券取引に不正の余地を残して置いたと見ることができますね。
 ドタバタのまま、翌1949年5月には証券取引所の立ち合いが始まりましたが、証券会社による運用預かりや投資信託兼営などモラルハザード問題を内包する諸制度が立ち上がりました。本来は強力な監督権限を握るべき証券取引委員会は役に立たず、38か月で廃止されました。以降代わって、大蔵省が証券行政を牛耳ることになりました。今日の証券市場低迷の遠因は、ここにありました。

 しかし当時の証券行政を主導したのは、官僚ではなく政治家でした。新法施行時の大蔵大臣であった池田勇人は、先の投資信託兼営に関する投資信託法の成立の旗振り役を演じ、これをテコにして野村証券に働きかけをし、特定金銭信託や投資信託を利用した証券の過剰流動性を吸収させるなど活躍しました。池田蔵相は野村証券と個人的な結びつきがあり、大蔵省との見事な連携(悪く言えば、癒着)を演出して見せたと言います。
 池田内閣が誕生すると、証券業界上げて池田の宏池会を支え、見返りとして証券会社に有利な証券行政を仕切っていくことに成りました。当時の大蔵大臣は田中角栄であり、証券局の独立、証券会社の免許制、日銀特融の発動などが業績として挙げられています。池田−田中ラインによって証券行政は健全性が歪められ、過保護行政路線が布かれたことは間違いありません。
 証券局の独立は、証券行政への機動的に対応できる環境作りが大義名分ですが、局への昇格によりフリーハンドな行政介入を行う狙いが先だった様子です。過保護と過剰介入が癒着を生じて、健全な証券行政の育成を妨げてきたと見るべきでしょう。しかも明確な監督権限が無く、行政指導など不透明な対応しか取れない中途半端なものでした。
 証券会社の免許制は、新規参入を抑制して過当競争を防止するという目的がありました。しかし現実には正常な競争さえも発生せず、大手・準大手・中堅・零細という今日までの序列を維持する役割しか果たしませんでした。長い間外国証券の参入を阻んだことも問題であり、結果として国際競争力を失わせる結果に終わりました。日本市場にも国際化の波が押し寄せた昨今における、国内証券各社の凋落は免許制が招いた悪弊なのです。免許制への移行に当たっては資本増強や運用預かりの縮小などが求められましたが、後者は形ばかりで実効が上がらなかったようです。
 日銀特融は、山一證券と大井証券(今の和光証券)に対して発動されました。とくに四大証券のトップの地位を占めたこともあった山一證券は、前述の運用預かりの割合が大きく、株式市場の地合悪化に伴う株価下落という転落スパイラルに填り込んで破綻目前に追い込まれたものです。立ち上がり始めたばかりの証券行政を維持するという名分で、282億円という巨額の特融が発動されたのです。この直後から池田内閣による所得倍増計画が働いて高度成長時代が訪れ、特融は5年足らずで完済されました。抜本的な改革に因らず、全くの偶然に依存する形であったため、山一證券にとっては不幸なことに1997年の破綻へ邁進することに成りました。

 ディスクローズの遅れも問題でした。運用預かりの問題、その後の損失補填問題、あるいは利益供与問題は、全てディスクローズ制度が盛り込まれなかったことに遠因があります。また投資家を軽視する証券会社の姿勢も、結局はディスクローズ思想の欠如が生んだと言えましょう。証券会社にとって怖れるべき対象は、大蔵省と政治家だけだったのですから。国際化や近代化が遅れたことも同様です。未だにディスクローズは遅れていますが、手数料自由化などで存続の危機に晒されている証券会社が信頼回復のために努力して欲しいところです。
 最後にインサイダー取引規制も十分に機能していません。タテホ化学工業の内部情報を利用して阪神相互銀行が株式の売り抜けをしたことに端を発した「タテホ事件」以降、規制の必要性が主張され、証券取引法を改正した際に盛り込まれました。しかし、制度はあっても立証が難しく、いつも灰色判定で終結してしまっています。やはり独立機関としての監視機関の強化が必要であり、現状の証券取引等監視委員会の人員増強と権限強化が待たれます。

 証券行政の出発点を誤っていなければ、バブルの到来もなく、今日のデフレ・スパイラルもなく、株式不況も無かったであろうだけに、SECをコピーするのなら全てコピーするべきで無かったかと悔やまれます。せめて、これから挽回が図られることを期待するばかりです。

参考文献:栗林良光著「大蔵省証券局」(講談社文庫刊)
99.04.09
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