第055回の「技術に資産価値はあるか」に絡んだ話を、とある金融機関の融資担当者と話し合う機会を得ました。そこで出た話は、ベンチャーへの融資が難しいのは、技術の資産価値よりも、そのプランナーの経営能力の欠如だということでした。プランナーは技術の価値を必要以上に説明し、どれだけ社会に役立つかを語るのだそうですが、肝心のいくらの金が必要で、どれだけの利益をどの期間で回収するのかという問題には触れないのだそうです。正確には、触れられないのですが・・・なるほどプランナーの頭は切れます。怪しいアイデアを持ち込む胡散臭い人物もいるようですが、その企画力はきわめて優れている人物がいるそうです。世の中に出せばきっとヒットするような商品であることは融資担当者にも分かるらしいです。
しかし、稟議書を書いて上司の融資決裁を受ける前に、プランナーの経営能力をチェックする必要があります。どんな立派なプランでも利益に結びつけるのは大変なことです。交渉能力はあるか、営業能力はあるか、財務諸表は理解できるのか、金銭のけじめは付けられるか、見通し能力に甘さはないか、などチェックを始めると全く能力のカケラも感じられないことが多いのだそうです。そんな人物は誰かに金をだまし取られるか、大博打を打って吹き飛ぶか、のどちらかの途を歩んでしまうでしょう。それでいて猜疑心は強く、より経営能力のある人物に経営を任せるような度量はないのです。そんな話を一つ紹介しましょう。
アスキーを興した西和彦前社長は、神戸が生んだベンチャーの雄です。ちなみに彼の実家はポン太の実家から徒歩15分ほどの場所にありました。そんな彼が10年ほど前に神戸市のセミナーで講演をしました。1989年の株式店頭登録の少し前だったように思います。議題は覚えていませんが、彼の早稲田大学時代の話、沖電気のif800(国産初期のマイコンです)の開発秘話、マイクロソフト時代の話、創業の苦労、社名のネーミングなどを面白可笑しく紹介していました。随分と楽しい話しぶりをする人物であったように記憶しています。当時はやや太めでしたが、余裕のある笑みを抱いていました。その後登録した株式はバブルの勢いに乗って上昇し株価は一時21,000円の高値を付けました。まさに向かうところ敵なしの彼は、マスコミで派手に騒がれ有頂天になりました。
しかし早くも1992年に経営危機に陥りました。本業の出版事業、教育事業やソフトウェア事業に特化せず、西氏が無計画に拡大した事業が相次いで暗礁に乗り上げたのでした。それまでの彼は、思いつき閃きで事業を興したり、取締役に内緒で新規事業への投資を決めるなどの無謀な事業展開を展開しました。株価は515円まで急落しましたが、スポンサーの出現と創業当時からの仲間(西氏がマイクロソフト副社長を務めていた当時に経営陣であったメンバーです。ビル・ゲイツ氏と喧嘩別れした西氏はアスキーに復帰して社長になりました)の努力があったと言います。
危機を乗り越えたアスキーは本業重視路線で経営が回復し、パソコンブームの追い風もあって1994年には7,500円まで株価が切り返しました。ところが再び西氏の悪い虫が起き、無秩序な投資を始めました。危機を救った仲間たちは何度も忠告した後に一斉に離職(1996年)し、そこからは西氏の暴走を止める者はいなかったと聞いています。しかも悪知恵を付けた人物がいるらしく、相次いで出資した会社はいずれも連結決算の対象外となるように持株比率の調整が行われていました。そして表沙汰にならない怪物が突如として出現しました。今までは西氏のプランナー能力に投資をしてきた銀行が、1997年に入って一斉に資金の引き揚げに動いたのでした。貸し絞りの一環でもありますが、全く実体の見えない関連事業の不気味さも理由にあったでしょう(メインバンクの興銀は副社長を派遣していましたが)。
西氏が利益を生み出すと信じた諸事業は、資金が止まって瀕死に陥りました。本業でさえ、不況による広告収入の低下、ヒットソフトの不在など諸要因で資金ショートの可能性が高まりました。金融機関を駆け回ってももはや無駄で、最後にCSKの大川功会長に救援を求めました。大川氏は「自分だけに任せてくれるなら」と1998年1月に第三者割当増資(会長個人とCSKとセガ・エンタープライゼス他で1,100万株(持株比率は50%弱)で約100億円)に応じました。大川氏は「5年10年先が見える西氏に社長の続投を約束した」といいますが、西氏本人は半数の株式を特定株主に握られる危険に気付いていたかどうか・・・彼は降格までのんきなコラムを雑誌に掲載していました。大川氏はアスキーの特別顧問に就任し、大川氏が非常に欲しがっていた人材の廣瀬禎彦専務をCSKの特別顧問に迎え入れました。
体よくアスキーを傘下に収めたつもりの大川氏。ふたを開けてみると、危機的状況は想像を絶していました。アスキー未来研究所の54億円を筆頭に関連会社整理損は17社333億円に上り、都合456億円の特別損失が表面化したのでした。応じたばかりの増資も吹き飛ばして132億円の債務超過を生んだ上に、264億円の有利子負債が残りました。1997年の524億円をピークに減少を続ける売上げの中ではとても償却できないものです(9月28日、200億円の私募転換社債(CB)の発行に金融機関が応じることが決まり、株価が1,400円を回復すれば株式に転換して借入金が圧縮できる見通しになりました)。
紹介が長くなりましたが、失敗の原因は名プランナーの西氏が名経営者だと錯覚をして巨額の資金を貸し込んだ金融機関にありました。そして社内に西氏の暴走を止められる人材が不在だったことです。経営の本質を分かっていた会長・副社長を1996年に手放していなければ、危機は最小限に留まったはずです。しかし逆にワンマン体制を確立して暴走して、CSKに経営権を奪われ、4月27日に社長から代表権のない取締役に降格されました。西氏には不幸でしたが、社員にとっては路頭に迷わずに済み、金融機関も安心して再建策に乗れる体制が整ったわけです。
詰まるところ、経営の分からないベンチャーには、どんな素晴らしいアイデアがあっても金を貸してはいけない、ということです。貸してしまうとベンチャーにも、金融機関にも、サービスの受益者にも不幸を生じてしまいます。技術や企画には無縁でも経営のしっかり分かる人物を経営陣に据え、プランナーが自分の能力を最大限活かせる体制を作れたならば、ベンチャーも融資を受ける資格ができるのではないでしょうか。
98.09.29
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