新世紀を無事に迎え、なんとかカルト集団も息を潜めるように成りました。信教の自由は認められるにしても、本人限りにして頂きたいものです。他人の信教の自由や、身体の自由、あるいは生きる自由さえも奪うことは、許されないことです。
迷える仔羊は、自分を導いてくれる牧童を慕い従います。いずれ牧童に依って、売られたり殺されたりするにしても、良いように利用される自分の愚かさに気づかぬものです。誰かが自分を導いてくれたにしても、それはその場限りでのこと。全てを盲目的に受け入れることは、自身の放棄であり、破滅への第一歩です。歴史上、狂信者達が教主達にどう使われたか、知るべきです。
神は存在するか、不毛な命題であります。神を「人智を越える存在」と位置づけるなら、神は存在するでしょう。「人智を越えない存在」であれば、それは神ではないはずです。神とは創造主でもあるのですから。激しい嵐、雷、洪水、火災、地震・・・自然の事象は全て神の力に依るものです。自然のメカニズムを解明することができ、ある程度の制御が可能となっても、なお人智を越える存在です。
創造主とは、偶然性に支配された、ある種のプログラムと言えましょう。水と光と大地から、生命体は誕生し、進化し、人類を形作ったとするのが、今の科学の言い分です。極めて低い確率ですが、着実に歩を進めつつ進化してきたそれは、天の采配にして、創造主の知恵と呼ぶのはどうでしょうか。結果として、DNAなどのプログラムが作られたにしても、それは何者かが創りうるモノでは無いでしょう。いくつも偶然性に支配された、「確率の世界が生み出した結果」に過ぎないと考えます。
さて、創造主が確率であるとすれば、自らを支配するモノも亦、自らの体内に宿っていることに成ります。つまり「主は、その躰に宿りて、在る」のです。故に、主に祈っても縋っても、我々は救われない道理です。自らの手で、自らの力を信じ、前進を続けるしか道は無いでしょう。もちろん、一心不乱に祈るなら、人智を越えた力が働くかも知れませんが、それは自身の非日常の力に過ぎません。火事場のクソ力的な奇跡は、起こるかも知れません。
人は、誰しも自身を律し尽くすことができません。それ故に、法を整備し、それを守ろうとします。しかし法は「約束事」に過ぎません。これを裁いたり罰したりする存在として、かつては神が必要でした。「罰するは神、赦すも神」というキリスト教的な宗教観は、そこから出ているはずです。我々はようやく神に頼らずとも、社会を律する術を得ようとしています。
あとは自らの躰にある「主」を信じ、それを騙さず誠実に生き続けるならば、必ず道は開かれるはずなのです。他人の世迷事に付き合わず、自分の信じる何かを見つけることにしましょう。
01.02.09
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