前頁へ  ホームへ  次頁へ
雑記帳No.079
一日一偽善

 世の中に偽善は沢山あります。しかし偽善は、悪でなく、善です。う〜む・・・禅問答ですね。他人や自分を偽って行う善だから、偽善。でも善行には違いないのですよねぇ。

 人は何のために、偽善を行うのか。物質的な欲望ではなく、精神的な欲望を満たすために、偽善を行うのだと思います。誰かに感謝をされたい、注目されたい、褒めてほしい、安心したい、罪意識を軽くしたい、と色々な有意識がトリガーとして働いているはずです。
 しかし、偽善を繰り返していると、自然自然に身について無意識の行動になり、それは真善(本当の善行)に変わりますね。神社での賽銭とか、近所の無償掃除とか、街頭募金への寄付とか、誰に感謝されるでもなく、注目されるでもなく、褒められるでもなく・・・何時でも何処でも行われる善行です。ありがたや、ありがたや。

 せちがらい世の中に成りました。不況の上に、歳末です。巷では「みれにあむ」なんかで盛り上がっていますが、お祭りムードの掛け声も虚しく、世間は寒々と冷え込んでいますね。そういうムードを反映してか、いささか偽善が行われる数も減っているような気がします。
 一昔前なら、社会道徳というものが残っていて、それなりに偽善が行いやすい環境にあったかと思います。しかし最近は、偽善の代償として得られたはずの感謝、注目、褒め言葉、安心感etc.が期待通りに貰えないようです。座席を譲れば当然という顔で座られる、募金に協力したら財団理事の不正が紹介される、神社に入れた賽銭がバブル投資のツケに払われる、子供に話しかければ変な眼で睨まれる、丁寧にメールに応対してもノーレスポンス(笑)、これでは偽善をする価値もないですね。

 世の中で偽善が減ってしまうと、真善が際立ってしまいます。そうすると無意識に行われていた真善が、気恥ずかしくなって遠慮されてしまいます。自分が無意識にやってきた真善が、変な眼で見られないか、変なリアクションをされないか、有意識に変わってしまって、真善が偽善に後退してしまったり、するわけです。
 真善が無くなってしまうと、もう世の中、ギスギスして暮らしにくくなりますよ。誰も信用できない、人を見れば泥棒と思え、なんて大変です。いきなり真善を行えといっても無理な話です。意識したら偽善なのですからね。

 そこで、まず偽善に取り組みましょう(笑)。一日一偽善なんてどうですか? それと他人の偽善・真善には最大限の感謝を示しましょう(これも一偽善ですな)。見え見えの偽善でも、心から感謝してあげれば、相手の偽善にも一層の磨きが掛かろうというものです。
 もう一度言います。一日一偽善です。

99.11.20
前頁へ  ホームへ  次頁へ