″ホで東京へ出た後、毎週一度は実家に電話を入れることを確約させられていた。心配性の母親の命令である。学生時代は貧乏だったので、実家の電話番号をコールし、「一度ベルを鳴らし、間をおいてもう一度鳴らす」という合図で無事を伝えていた。実家で用事があるときは折り返し電話を寄越す約束である。就職してからは隔週であることもあり、この週も日曜日でなく、振替休日の月曜日であった。同窓会の資料が準備できた安堵感もあったのであるが、翌日延ばしにしなくて良かったと思う。
1月16日の22:30頃。電話は珍しく姉が出た。いつもは妹が、電話に飛びついてくるのだが。姉は会社の同僚から男物セーターを貰ったので近日中に送ってくれると話した。父に代わって、先日の郵便物が無事に届いたかと聞いた。父が電話越しに話すのは珍しいことであった。妹が電話口に出たが、母親が割り込んで、冷え込むから風邪を引かないようにと念を押した。いつもの心配性である。
妹が、たわいのない話をした。春休みにでも東京へ遊びに来て、さだまさしのグッズショップへ行きたいなどと話す。7時間を余すばかりの人生で夢を語ったことがいじらしい。システム手帳は表紙の縫い合わせが難しく、作業が進んでいない、とこぼした。
姉に中学同期の件を話していなかったので、最後に代わって貰い報告した。母親が電話口でもう一言話したようだったが、よく覚えていない。四人交代で電話口に出たのはおそらく最初の最後。都合15分ほど、珍しく長く話した。
人は死ぬ前の声に何らかの予兆を示すなどと言うが、明瞭ではっきりした語り口調だった。話の内容で、何か気づくことはなかった。ダイイング=メッセージが含まれたかも知れないが・・・。姉が語ったセーターは、燃え尽きたと思っていたが、馴染みのクリーニング屋に預けてあった。薄手長袖の黒セーターだ。今でも着るには着るが少し大きい。システム手帳は、灰の状態で焼け跡から回収できた。材料を揃え直して代わりに完成させようと思ったが、今なお果たしていない。6月24日、妹は23になるはずの誕生日。6月26日、姉は31になるはずの誕生日。巫女のアルバイトで、「3歳サバを読んでも疑われなかった」と自慢していた。結局、いつまでも27歳のまま。気付いたら私の方が年上になった。
この年の正月。遠赤外線の出るサポーターを、母に贈った。手足の血行を良くするとの話だった。母は気に入ったらしく、通販で追加注文をしていたらしい。後日回ってきた請求書で確認した配達日は、1月15日。間に合ったのが良かったのか、悪かったのか。
無理なパート勤務が祟って、足には静脈瘤が毎年のように増えていた。無理を続けると遠からず後遺症が出る、と医者が警告していた。しかし、最後まで本人は、楽しそうに仕事をしていた。「若いバイトに紛れると、気も紛れる」と話していたものだ。検死官が母の足の骨が緑色に変色していたと指摘した。そして、「骨に日頃無理が掛かかっていると、変色してわかるのですよ・・」と言った。
98.06.28
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