私が生まれたのは、1969年。神戸市須磨区の相信病院(この病院は震災直後に多大な被害のため放棄された)というところで生まれた。市内の幼稚園、小学校、中学校を経た後、高専への途を選択した。そして20歳の時、いくつか受けた大学編入試験のうち、唯一受かった東京の大学へ進学した。母親は反対したが、この結果が、東京での就職の途を開いた。24歳で工学修士を修めて現在の職場に就職。この際、神戸市役所と関西電力の内定も頂いていた。神戸市役所に就職していれば入所1年目のこと、間違いなく実家住まいであったはずだ。現在の職場が採用を決めてくれたことが、私に幸いした。
父親は、大阪府岸和田市生まれ。神戸では寝具店に雇われ、寝具不況のため給与手取りは決して多くなかった。私の実家は、この寝具店が社宅として建てた文化住宅であるが、当家のほかは、単なる賃貸であった。当時新築だった家は、震災時で築27年。地震対策など取ってもいないコンクリート造りの二階屋で、台風で瓦が飛ばぬようにと、かなりの土砂が屋根裏に上げてあった。当家はその一階にあり、本来の横揺れ地震であれば大きな被害はなかったと思われる。しかし巨大な直下型地震は、その1階を瞬時に押しつぶした。家族は、圧迫死もしくは窒息死で、ほぼ即死と思われる。その1時間後に近所の工場跡から出た火が引火して、一昼夜燃え続けた。家財道具のことごとくは焼け尽くし、5人分の遺骨が発見された・・・
住居は無料だったが、手取りの少ない家計を支えるべく、父親は新聞配達のアルバイトを、母親は食品加工工場の夜勤と企業研修所の早勤のパートを兼ねていた。この日が普通の火曜日であったなら、二人とも家には居なかったのだが、成人の日の振替休日明けということが明暗を分けた。
父親はこの日、寝具店の店休日。好きな郵便趣味の資料整理をする腹づもりだった。自ら主宰する同好会の会報を、前日に発送し終えたことも足取りを軽くしたと思う。連休明けの新聞の折込広告は少ない。いつもなら06時頃の帰宅であるはずが、この日は販売所にも戻らず、5:30前後に帰宅したようだ。父の遺骨はトイレ近くの父の作業場跡で見つかった。突然の揺れに驚く中で、頭上に迫る天井を父はどう見つめただろうか。
母親の夜勤は月曜日になく、前日が休日だったため早朝勤もなかった。早朝勤があれば06:00からの勤務のため、研修所近くの坂道を自転車で上っている時間であったはずだった。母親の遺骨は台所で見つかったが、ガスは使われていなかったらしく、窓を必死で開けようとしたものかも知れぬと検死官が言った。
学者先生は、「05時台という時間が幸いした」という。住民の多くは外出して居らず、火の元も少なかったので大きな災害にならなかったと言った。これは関東大震災との比較の話で、何のなぐさめにもならなかった。
姉は、電話近くで見つかった。一人だけ腰の辺の遺体が焼け残った。まだ寝ている時間であるので、飛び起きたものかも知れない。いつもなら06:30前に起きだして化粧に時間を費やす彼女であったから。職場のビルは傾いたものの無事に残った。震災が出勤時刻であれば無事であったはずである。
妹は、布団の辺りから見つかった。目が醒めぬ内に昇天したものと考えてやりたい。この前年、大阪女子大学に合格した彼女は、毎日片道2時間以上も費やし通学していた。06時過ぎに父親に起こされるのが日課であった。震災が在学時間中であれば無事であったはずである。妹に関しては通学時間が掛かりすぎるので河内長野の従妹の家から通わせてはどうかと言い続けたのだが、母親は断固として自宅通学を強いた。今から思えば、もっと強く主張すべきであった。
98.06.28
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