第一回目ということで、この世界に足を踏み入れるきっかけとなった曲集を。
この曲集に出会ったのは高校2年の春。室内楽部というところに所属し、次の文化祭に向けての選曲のために部員全員が図書館でレコードを借りまくっていたときで、たまたま部長から私にあてがわれたのが、これ。
それまではせいぜい学校の教科書に出てくるような曲しか聴いたことがなかったのだが、スピーカーから流れてきた音楽を耳にしたときの率直な感想は、「何だ、こりゃ」。これまで聴いてきた音楽から、かなりはずれているように感じられたのである。教科書に載っている一連の曲をいわば本流とするならば、教科書に載らない支流にもこんなに自由な発想の音楽があろうとは。
さて、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハであるが、上に「支流」という表現を用いたものの、この人は完全な支流とはいえないだろう。ヨハン・セバスチャン・バッハ(いわゆる大バッハ)の次男、バロックと古典との間の前古典派を代表する作曲家、多感様式など、そこそこ知られた存在である。ただ楽器編成や作曲手法には斬新さがあまり見られないために、音楽史上重要なポストは与えられていないようである(例えばこのシンフォニアはモーツァルトの交響曲第25番と同年の作であるのに、弦4部にチェンバロという旧弊な編成である)。しかし私のような素人が楽しむのに一番重要なのは、楽器編成よりも曲想であろう。その点で彼が優れていることは、生前、多くのバッハ一族がヨーロッパで活躍していた中で、「大バッハ」といえばエマヌエルのことを指した、ということが一つの証左となろう。それだけの名声を得ていたということは、とりもなおさず多くの人が彼の音楽のファンであった、ということになるのではなかろうか。
この曲集には、彼の音楽的な特徴が顕著に現れている。曲は至って単純な作りで、ヴァイオリンが旋律を奏でるのに対し、ヴィオラ・チェロが伴奏するという形を基本としている。しかし、頻繁な転調、伴奏の変化(経過句ではチェロをはずしてヴィオラのみにする)、ユニゾンの多用(いわゆる「決め」の効果)などによって、曲に変化を付けている。
今思うに、最初に聴いたときの「何だ、こりゃ」という感想は、転調や、フレーズ・主題の交替が多く、その変化がいささか唐突であるために面食らったことから受けたのであろう。確かに彼の曲は部品をかなり粗削りのまま並べているところもあり、一回聴いただけでは流れが見えづらい。例えば超有名曲の代表格、ベートーヴェンの交響曲などでは特に経過句の処理がしっかりしていて、全体の構成がはっきりしており、まさに流れるような調べとなっていよう。
しかし最初に面食らった曲も二度、三度と聴くうちに判ってくる。すると短い時間の中での思い切った展開から受ける小気味よさとでもいうものが、えもいわれぬ魅力となってくるのである。この曲集は、作曲家自身が「思いのままに筆を進め、実際の演奏のためにそこから必然的に生じざるを得ぬ困難を全く気にかけなかった」と語っているように、多感様式を地で行くものである。もう個人が好きか嫌いか、というレベルのものでしかなく、学問的に作曲手法がどうのこうのと言えるところにはないのであろう。
さて、この曲集には思い入れがあるので各曲についても少しずつ述べてみたいのだけれど、少々長くなってしまったのでそれは次回に。
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