鎌倉時代の後期に入って、地頭上がりの御家人体制が崩壊していきます。その直接的要因は、分割相続と元寇です。間接的要因は、飢饉など天災の発生と、悪党の出現でしょうか。
御家人達の相続は、未だ長子相続が確立されておらず、兄弟による分割相続が一般的でした。全国各地の地頭に任じられた御家人達は、その荘園を食い荒らし、周囲の豪族や富農を取り込んで領地を拡大しました。しかし、その勢力拡大には限界があり、また同時に多産の時代でもあったため、各々の領地が細分化されることは避けられませんでした。
一つや二つの村落を支配する程度では収入も知れていますが、御家人としての任務を果たさなくては困ります。御家人達は先祖伝来の武具を質入れしたり、領内の田畑を売り払ったりして、生活の糧を得るようになります。
そこへ元寇が発生します。一応は、神風によって滅んだことに成っています。文永には九州襲来の日に、弘安には1か月の長丁場のうちに、それぞれ大型台風が襲来して船舶を破壊し尽くしました。しかし現実には、寄せ集めの兵隊をすし詰めで運んできた元軍で、疫病や食糧不足による著しい士気低下が、侵攻の意志を挫いたようです。加えて高麗など支配国に作らせた船舶に著しい手抜き作業があったようでもあります。
元寇そのものは多くの死者を出しましたが、寸土も失っていません。そして寸土も得ることができませんでした。つまり御家人達に人的資金的負担を強いながら、鎌倉政権は新領地によって報いることができなかったのです。加えて、再々度の侵攻に備えるため、西国の御家人達に多大な出費を強いました。御家人の財政的逼迫度が一層高まったことは間違いありません。加えて自然災害の発生や、悪党の出現で生産能力が落ち、一層困窮度を深めていきます。
元寇は鎌倉政権に大きな組織変化を生じさせました。上層部では、お飾りの将軍に代わる執権の権限強化が進みました。これまで最有力の御家人であった北條氏が、事実上の将軍代行の地位を得たわけです。当時の執権は若い時宗でした。時宗自身が元寇の撃退に気を良くして、強引な政治を押し進めるようになります。時宗を補佐したのが後内人と呼ばれる北條家の家僚達で、評定衆による合議制は形骸化し、執権と後内人による専横政治が行われます。
時頼以降、身内衆として勢力のあった安達一族は、時宗の子貞時が幼少のまま執権に就任した際に、後内人との軋轢を生じてしまいました。後内人の有力者平頼綱の先手により安達一族は一掃され(霜月騒動)、その後頼綱自身も長時に滅ぼされます。北條家内部の内紛によって、北條得宗家は著しく勢力を弱めることに成ります。同時に地方に対する監視の目も緩くなります。
また地方では、国内の御家人達を統括する程度の地位であった守護が、その地位を強めて地頭(土着した御家人)に取って代わり(守護も御家人ですが、土着はしていません)、中央に対する発言権を強めてきます。弱体化した土着の御家人や豪族を傘下に収め、荘園や公領を蚕食していきます。元寇での御家人配分、霜月騒動での安達派御家人の掃討、あるいは悪党の追捕などで主導権を発揮し、北條得宗家の監視が緩んだ隙も利用したようです。
鎌倉政権としても御家人の弱体化は見過ごせず、ついに徳政令を発しました。永仁の徳政令は、御家人が売却したり質入れした土地を無償で御家人に返させ、新たな売却や質入れを禁じました。また今後幕府で金銭貸借の訴訟は扱わず、違反した場合は厳罰で望む旨を明らかにしました。しかし、これは目先の解決にしか成らず、新たに資金を得る手段を封じてしまったため、御家人の不満を高める働きしかしませんでした。
鎌倉政権の基礎となる御家人が弱体化し、不平不満を募らせます。代わって守護勢力が台頭、社会不安は一層拡大していきます。そして、鎌倉政権に代わる新しい体制の出現を望む声が強くなってきます。朝廷には、稀代の政略家後醍醐天皇が誕生します。まるで歴史の必然に応えるようなタイミングでした。
00.01.01
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