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日本史の研究No.22
藤原貴族の凋落、仏教の大衆化

 いわゆる鎌倉時代、もはや藤原貴族の凋落は、決定的となりました。それは全国各地の荘園収入の多くを失ったという背景があります。荘園は半分以上を地頭に奪われたほか、管理人にも収入を横領される始末で、これを督促するだけの才覚を有する家僚の不在も決定的でした。実体的な当事者能力を失ったということです。
 藤原貴族の凋落は、そのまま朝廷の凋落を意味します。宮中行事に必要な資金は当然のこと、生活必需品や食事にまで事欠く状況です。朝廷の収入は、かろうじて山城国から入りますが、それさえ六波羅殿の目を気にしなくてはいけない有様だったようです。
 鎌倉時代後期の朝廷の役割は、地方豪族や地方御家人に勤王精神を流布することと、その見返りに官位などを授けるに限定されます。地方では天皇や朝廷の権威は重んじられており、高位貴族との対面や官位任官の価値は極めて名誉なことでありました。名ばかりの官位を受けるために、地方豪族から献上される貢納金が主要な財源になるほどだったと思われます。また手紙や和歌など、京文化を伝えるものも重宝がられたということです。

 当時の日本を代表する仏教勢力は、南都(東大寺、興福寺など南都七大寺が中心)と北嶺(比叡山延暦寺)です(高野山金剛峰寺は密教であり、埒外にありました)。いずれも朝廷や藤原貴族との提携を深め、全国各地から寄進された多数の荘園からなる広大な寺領を抱えていました。しかし権門との癒着が進み、宗教的には堕落が進んでいたと見られます。そして権門の凋落に伴い地方荘園が横領されるなどし、経済的に凋落していったと見えます。
 また末法思想の存在があります。西暦に換算して1052年、世界は末法に成って滅びるとされ、人々は念仏を唱えて極楽浄土へ転生することを望むようになったそうです。これを浄土信仰と呼びますが、南都や北嶺の教えとは対立する思想でした。11世紀の浄土信仰は、貴族を中心に広まった(藤原頼通の平等院鳳凰堂など)に過ぎません。しかし、鎌倉時代に入ると武士や庶民にも広まるように成りました。民間には専修念仏が横行し、南都や北嶺の勢力と対立するように変わっていきます。

 専修念仏の中核となるのは、法然です。法然は北嶺に学び、南都で数多くの教義に触れましたが、専修念仏に感化されこれを極めました。彼の専修念仏は身分階層を超えて多くの信者を作り、やがて教団としての浄土宗を組織化します。法然は北嶺と南都に睨まれて土佐に配流され、手痛い法難に遭います。法然の弟子から親鸞が出て、より深い意味で庶民に分かりやすい浄土真宗を起こしました。旧来の宗教から見れば反体制的な新興仏教の誕生です。浄土宗からは、一遍の時宗も踊り念仏として広まりますが、のちに衰退しています。
 一方で、栄西や道元がそれぞれ宋から持ち帰った禅宗が、武士の間に広く受け入れられました。前者は武士の上層部に広まって臨済宗に、後者は地方武士などに広まって曹洞宗と成ります。浄土宗が念仏のみ唱えることで救われる他力本願であるのに対して、禅宗は厳しい修行により自ら救われる自力本願であることが大きな違いです。しかし南都や北嶺のように小難しい戒律(教義)を振り回さないところが、仏教の大衆化に役立ちました。
 もう一つ、法華宗があります。日蓮が広めたもので、釈迦仏と法華経のみを認め、念仏・禅・律・真言の全てを否定しました。日蓮は北嶺で多くの教義を治め、自ら法華経主体の思想を構築しました。新興を含めて全ての宗派を敵に回したため、日蓮は伊豆や佐渡へ流されましたが、根気強く辻説法で教えを広めたものです。

 総括すると、朝廷や貴族を中心とする権門の没落、権威的な宗教に対する武士や庶民の敬遠、天災など多くの厄災の発生、根強い末法思想からの救済、こうした背景から新興宗教が広まっていき、結果的に仏教が大衆化したものと見られます。

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補足1
 日蓮の「立正安国論」は、天災の発生や外国による侵攻を予言したものとして知られます。その後の大飢饉や元寇の発生が、日蓮の予言の正しさを証明するものだとして、とくに関東で法華宗(日蓮宗)の勢力拡大が進んだようです。

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