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経済の研究No.92
丁稚奉公制度の崩壊

 これまでの日本の企業組織は、江戸時代以来の丁稚奉公制度を活かして発展してきたと考えています。終身雇用も、年功序列も、丁稚奉公制度以来のシステムです。今回は丁稚奉公制度から日本企業を眺めてみることにします。

■ 発祥は近江商人の店売り方式
 近江商人は、日本三大商人の中でも最古参です。近江国(今の滋賀県)は、平地が狭く、住民全てが農業で食べていくことができない土地柄でした。一方、平安京のある山城国に隣接し、京から東国と北国へ抜ける交通の要衝であるため、物資や人間を運ぶ陸運と水運が開けたと言うことです。運送で生計を立てる者が増える一方で、自ら商品を右から左に動かして利益を得ようとした集団が生まれました。これが商人の始まりです。
 天秤棒の両端に商品をぶら下げて、何十里も往復する行商から始め、近江に集まる商品や情報を持って売り歩きました。行く先々で地域の物産を買い集めては商品に加える旺盛な販売方法で、各地で商品を動かして利益を上げてきました。同時に情報収集に励んだのは勿論です。
 その近江商人は、近江に家と家族を残して拠点とする一方で、稼いだ金が溜まり始めると主要都市に支店を開きました。やがて支店での「店売り」のウェートが大きく成りますが、支店を増やしては組織的に物産を動かし、雪だるま式に資産を膨らませました。

■ 地縁関係者で固めた、丸抱えの終身雇用
 店ができると人手が必要です。初期の頃、主人は行商を続けていますから、信頼のできる人間を番頭に雇って店を任せることになります。口入れ屋という人材斡旋業者を使って地縁関係者(郷里の出身者)のみを採用しました。郷里の者なら気心も知れ、必ず共通の知り合いが見いだせたからだそうです。その知り合いが保証人となることもありました。
 何人もの番頭を雇うだけの資力はありませんから、知人の子弟を丁稚として雇い、それを育成するシステムを採用しました。丁稚は衣食住を保証されるほかは、わずかな小遣銭しか貰えません。里帰りさえも自由にできませんでした。その代わり、所定の年数を勤め上げるか、番頭から抜擢されれば、手代に昇格できました。どちらかと言えば、能力よりも経験が重視されていました。
 手代に昇格すれば、衣食住のランクが上がり、手当も支払われ、里帰りも条件付きで認められるように成ります。店への愛着心も増し、忠誠心も顕れてきます。手代で経験を積むか、大番頭から抜擢されれば、番頭に昇格できました。これも能力よりも経験が重視されました。個室か借家が宛われ、手当も増額、盆暮れの帰省が許されます。そして結婚も可能でした。
 主人は番頭の中から大番頭を抜擢します。大番頭には支店における人事権を含む全権限を与えました。見込みのある大番頭には、娘を与えて婿にしたり、暖簾分けをして別家を立てさせたりしました。丁稚時代から死ぬまで面倒を見てくれる、丸抱えの終身雇用だったわけです。日本橋の豪商・白木屋(先頃閉店になった東急百貨店日本橋店の発祥です)では、主人も番頭も丁稚も、そしてその家族まで全て同じ墓地に埋葬されたということです。

■ 能力よりもポストで機能する年功序列制
 商人が一番に重んじたのは信用です。アイデアや人間性で業績を伸ばした店もありますが、信用を維持できなかった店は衰退しています。このため信用を疎かにする者は追放されましたし、信用さえ大事にすれば組織に残れる仕組みでした。あまり個人の能力は問われなかったわけで、その証左にどんな有能な者でも、余所者は入り込めませんでした。
 個人の能力を問わないで店を機能させるために、ポストで機能するシステムを作りました。それが職階制であり年功序列制でした。丁稚→手代→番頭→大番頭という職階が基本で、同じ手代同士・番頭同士でも年功で序列が決まりました。自ずと組織は纏まりを持ち、機能的集団として動くことができたわけです。また管理能力の不足が心配されそうですが、日頃から職階や序列の下の人間の世話をするうちに自然と管理能力が身に付くようなシステムになっていました。
 給与と待遇は前述のように職階が上がるにつれて上がりますが、年功を積むだけでも上げられました。結局は職階や年功に相応しいだけの経験を積んだ見返りとして、給与と待遇を得たわけです。給与は生活給であり、最低の身分保障でありました。対する賞与は別で、店の業績や、個人の功績に対して支払われたので、インセンティブを向上させるものでした。原則としてポストで機能する仕組みですが賞与で補いをつけてもいたわけです。

■ 維新後も制度は生き続けた
 明治維新を迎えてからも、丁稚奉公制度は生き続けました。三井や住友は江戸時代から続いた大店ですが、制度の有用性を良く知っていました。やがて義務教育が始まりますが、義務教育を終えたばかりの子供を雇い入れて丁稚修行を積ませたことに変わりはありません。ところが、とくに財閥系企業では海外や政府とのやりとりの必要から、能力ある余所者を必要としました。大学で高等教育を学んだ優秀な人材(つまり高学歴のエリートです)を組織に取り入れました。
 それでも中小企業では丁稚奉公制度が生き続け、高度成長期までは中卒や高卒が主戦力でありました。経営者にも丁稚からの叩き上げの人が多かったようです。やがて業容が拡大してくると、財閥系企業への憧れもあって、高学歴のエリートを大量採用するようになりました。あるいは経営者が自身の子弟に高等教育を施して経営に参画させるように成りました。

■ 丁稚奉公制度の崩壊
 高等教育を受けてきた人材は、丁稚としての下積みなしに手代格や番頭候補格に据えられました。肌で顧客や同僚と接してこなかった彼らは、職階や序列を飛び越して得た管理職の地位に戸惑いながら、下になる者を労る気持ちを持てず、やがて組織官僚化しました。学歴と成績を重視し、仲間同士の和や、商売上の信用の重要性に気付かなくなりました。
 番頭・大番頭が丁稚・手代の考えを理解できなくなれば、丁稚奉公制度は終わりです。丁稚・手代は店のために働かなくなり、終身雇用と年功序列のお陰で喰うには食えるので無気力な者が増え、本来は個人の能力よりもポストで機能するはずだった企業組織が麻痺しつつあります。丁稚奉公制度の崩壊が、今の日本企業の中に巣くっている病魔の正体ではないのでしょうか。
 完全に丁稚奉公制度を否定して欧米型の経営スタイルに改めるか、大番頭も丁稚と同じ釜の飯を食い下積みの苦労を分かち合って丁稚奉公制度を復活させるか、その決断をしなくては企業全体が崩壊してしまうでしょう。しかし組織官僚化してしまった今の経営陣に可能であるかどうかは・・・疑問が残ります。少しで良いので、丁稚や手代の苦労を知って欲しいと思います。

99.02.04

補足1
 商人に関する記述は、邦光史郎先生の「日本の三大商人」、樋口清之先生の「梅干しと日本刀(下)」を参考にさせていただきました。

99.02.04

補足2
 近江国の生産力については慶長期の石高データを以て反論されていますので、目下調査中です。戦国期以前には独立領主が多かったため、慶長期よりもかなり生産能力は劣ったと思われますが、検知以前の石高データは存在しないため、調査できるかどうか疑問です。何か良い資料をお持ちの方がありましたら、お知らせ下さいね。

99.02.13
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