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震災日記No.05
震災日記(5:1月17日)
〜 当日は、ただ漠然と 〜

 この日、朝06:00時過ぎに目が醒めた。いつもより早起きであるが、別段何でもない。同窓会の名簿&写真の送り状を何カ所か訂正し、職場帰りにコンビニでコピーすべく資料持参で、08:30頃に出勤。新人は朝から課内の掃除をする義務があったのだ。09:00時過ぎに、同僚が震災の話を伝えに来る。ポン太は朝TVを観ないので、初めて事件を知る。TVは、生田神社の社殿が潰れたニュースや、高速道路が横倒しになったニュースばかり流す。やや人ごと混じりに、驚きの声を上げた。

 実家に電話したが、話し中。飾磨の祖母宅も通じない。課長の許可を受けて、自宅待機に。帰り道で同窓会資料をコピーし、家で震災情報の番組をビデオ取り。岸和田と河内長野の叔父には連絡が着く。実家は、相変わらずの話し中。パソコンを操りつつ、TVに囓りつきながら・・・一日中実家からの電話を待つ。しかし連絡はなく、父の職場とも連絡が着かない。
 TVが携帯電話なら通話できる可能性が高い、と報道が入る。近所の同窓生の携帯に掛けるが、同じく話し中。グリーンの公衆電話なら優先的に繋がる、という情報もあったが、依然として、話し中(本当は、電話線がすでに焼き切れていたのだ)。

 一日TVを観て過ごすが、有望な情報はない。川向かいの中学校が避難所となっている映像が、夕方から繰り返し映る。実家は、カメラのわずか手前のために映らない。実はずっと燃えていたのだが、間抜けなカメラマンがパンを固定し、特段のコメントもしなかった。どの放送局も同じアングル、同じ取材を繰り返す。現場中継も同じ場所ばかりで、被災地の真ん中に入る勇気がないのだと気付く。夜になって、職場の先輩や大学の同期から安否の確認電話が届く。課長と相談して、翌日現地入りすることに。無期限の特別休暇が出る、と聞かされた。河内長野の叔父と連絡を取って、早々と寝た。

 振り返れば、この日以降、家族が死んでいると一度も考えなかった。頭の回線がショートしているに違いなかった。人間とは不思議なものだ、考えたくないことは無意識に遠ざけることができるらしい。

98.06.28
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